−木内野球を語る− 第1話 |
||
| 「勘が鋭く、ひらめきの野球」 | ||
木内は主将で先頭打者、さらに守備範囲の広い中堅がポジション。打球音に反応して、瞬時に守備位置を変えるほど、縦横無尽にグラウンドを動き回った。加えて相手チームの出方を察知して、選手交代や守備位置をてきぱき変えるなど、「選手時代から勘が鋭く、ひらめきで野球をしていた」という印象が強かった。 選手・木内の最後のプレーもしっかり記憶している。夏の県大会。水戸・水府球場での4回戦の茨城戦。1年生としてスタンドから応援。「勝てる」と思った試合は3―2とリードしたまま最終回の守りに。 1、2塁のピンチの場面に、打球は偶然にも木内に向かって飛んできた。小さな体でダイビングキャッチ。差し出したグローブからボールはこぼれ落ちた。打球は外野に転々と転がりサヨナラ負け。 その木内に指導者として心得を伝授したのが、同校OBでコーチを務めていた市村要(故人)だった。市村は立教大学で主将を務めた後、戦時中は満州に渡り、ノンプロのチームを率いて活躍した実績を持っていた。 ベンチから選手への指示は、ヒットエンドラン、バスター、ダブルスチール。今ではありふれた戦術だが、「足を使った機動力野球は、当時の野球スタイルでは非常に斬新だった」 「その市村の機動力野球を、さらに進化・過激にしたのが現在の『木内野球』」と指摘する。 木内は高校卒業後、そのまま母校のコーチ・監督に就き、56年に「職業監督」として取手二高へ。先輩・木内の後を追うように58年に、茨城大卒業後、空席だった体育教諭として取手一へ。同時に野球部監督を兼任することになった。 先輩でもある木内から野球の指導者としてのノウハウをたたき込まれたが、自身でもチームを鍛え抜くため、強豪がひしめく千葉、東京、神奈川に遠征した。グラウンドに照明施設を備え、夜遅くまで練習に没頭した。「当時、ナイター設備がある練習場は、県内では初めてだったのでは」と話す。 「甲子園に行くのは東大に入学するよりも難しい」と揶揄された弱小チームだったが、徐々に実力を身につけ、68年、翌69年と連続して甲子園に出場し、72年には春の選抜大会として本県で初めてコマを進める偉業を成し遂げた。 73年の夏を含め計4度にわたり監督として甲子園の土を踏んだ。「取手一黄金時代」を築き上げた。 先輩の木内より一足先に目標に達したが、「木内さんからは個人の能力に合わせた基本的な練習方法など、みっちり教え込まれた」と、今でも頭が上がらない。 いわゆる「木内マジック」についても、「あれは奇策でもなんでもなく、練習段階から選手らにマジックのタネを植え付けている。選手一人ひとりの性格や能力を見抜く、持って生まれた感性のたまもの」と分析する。 しかし、今だにベールに包まれた部分がある。それは八七年の夏の甲子園。木内が初めて常総学院の監督として甲子園出場を果たし、決勝で惜しくもPL学園(大阪)に敗れ、 準優勝した時だった。 3回戦での右腕・伊良部(現・阪神タイガース)を擁する尽誠学園(香川)など、本格派の投手をずらりとそろえる強豪チームを次々と破る快進撃を続けた。初めて対戦する豪腕投手の前にバットは空を切るはずが、常総ナインはいとも簡単に弾き返した。 決勝までの戦いぶりに、「観衆がどよめく甲子園の大舞台でも、木内さんは自分のペースで試合を運ぶ。そして何よりも凄いのは、選手たちにどのようなアドバイスをするのかは分からないが、相手の一流ピッチャーを三流ピッチャーに変えてしまう」というのだ。 木内に尋ねても「選手に特別なアドバイスしていない」と答えるのみ。木内野球は、いつしか県大会制覇から、「甲子園でいかにして勝つか」と、全国大会に標準を合わせた戦法に進化していた。 木内野球の奥深さを垣間見た瞬間だった。 今年の夏は、監督として最後の木内を、スタンドから応援する。(敬称略) |