−木内野球を語る− 第2話
「計算されたとっぴな戦法」
 「初めての甲子園では興奮と緊張でひざがガクガクと震えた」と話す浅野正勝氏=土浦工業高校の県高野連事務所で
浅野正勝【あさの・まさかつ】筑波高校、日体大卒。1966年(昭和41)から5年間、波崎監督。71年(同46)から6年間、下館一監督。77年(同52)から10年間の明野の監督時代に、第61回大会の夏の甲子園(79年)に出場。また第56回選抜大会(84年)では木内幸男の取手二と同時に甲子園の土を踏む。87年(同62)年から11年間に土浦工監督を務め、部長を経て2001年(平成13)から県高野連理事長に。今年度で退職。
 県内の高校野球の勢力図は、最近では水戸商など水戸地区のチームの活躍が目立っているものの、甲子園出場校の顔ぶれは木内幸男の野球に刺激された県南地区のチームが多く占めている。
 一九七四年の第61回夏の全国大会、また八一年の第56回春の選抜大会で、県西地区に所属する明野の監督として甲子園出場を果たした輝かしい実績を持つ。
 その後、八六年から県南地区の土浦工に異動。再び優勝を目指したが、強豪校の分厚い壁に阻まれ、甲子園への道を開くことはできなかった。
 それを物語るように、「木内さんには公式戦で一回も勝ったことがなかった」。苦々しい思い出だけが残っている。
 日体大卒業後、体育教師として波崎へ。同時に野球部監督に就いた。そのころの波崎は現在の水戸地区ではなく県南地区に所属していた。
 当時、県南地区では取手二の木内よりも、木内の後輩・田中国重の取手一が全盛期を迎えようとしていた。
 波崎の監督就任のわずか三年目の夏の県大会。豪腕投手を擁し順調に勝ち進んだ。「二十五歳と若かったため、優勝の可能性がある」と意気込んでいた。
 前年の秋の地区予選の代表決定戦で、強豪の取手一と互角の試合を展開。8回まで3―0とリードしながら、その裏に一挙6点を奪われ3―6で敗れた。「五分の試合展開だったので、今度試合したら勝てると思った」。確かな手応えをつかみ、夏に挑んだ。
 思い描く通りにチームは準決勝まで勝ち進んだ。ところが日立工に不運とも言えるポテンヒットで1―2で敗退。そして取手一がその年、優勝した。
 「負けていなければ決勝で取手一と対戦していた。秋の試合で勝てる自信があった。甲子園に行っていたなら、人生も変わっていたかも」
 大会終了後、田中野球が全国でどこまで通じるのか、そのプレーを肉眼で確かめるため、自費で甲子園のスタンドまで足を運んだ。
 新米監督として、目の前に立ちはだかる名将の指導方法を学び取ることに必死だった。「田中さんは基本に忠実。木内さんはとっぴなことを考える変則的な戦法をするが、それはすべて計算されている」と話す。
 木内はスクイズ一つ取っても新しい方法を導入、他チームのお手本になった。「一般的に三塁側にボールを転がしていたが、木内さんはいち早く一塁側にスクイズしていた。それは本塁に向かう三塁走者が、打球の方向を良く見て判断できるようにするためだった」と説明する。
 「木内さんは大型チームを作れば、さらにその能力を最大限引き出し、ち密な野球に仕上げる。けれども、『大きな打線を作っても相手ピッチャーによっては1点や2点しか取れないゲームもあるんだよ』と教わった」
 木内のまくし立てるような口調の中に、「なるほど」とうならせる野球のヒントをのぞかせたと思うと、ベンチから木内の「そんな所でスクイズする奴がいるか」と選手に罵声 (ばせい) が飛ぶ。それでいて、目の前で「ポン」とスクイズを決められたこともある。
 また、グラウンドで選手の顔が見えなくとも、背中やその動きで名前を当てたりするエピソードもある。それは相手チームのベンチの様子や選手の能力を見抜くことにもつながる。
 「私はプロの高校野球の監督。先生らがベスト8まで一緒に勝ち進んでも絶対に負けない」。そう豪語する木内の言葉が耳から離れない。
 「ひらめきの野球にずば抜けた洞察力」。高いレベルにある木内野球の前に圧倒され、ほんろうされながらも高度な野球技術を吸収。木内野球はほかの監督へも大きな影響を与え、「茨城の野球=木内野球というように、本県の高校野球のレベルが高くなり、全国でも一目置かれるようになった」と話す。
 県高野連理事長を今年度いっぱいで退職する。木内とほぼ同時に高校野球の表舞台から退くことになった。「私は退職ですが、木内さんは常総の監督として、まだ成し遂げていない夏の全国制覇を目標に、ここまで頑張ってきたんだと思います」。(敬称略)


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