−木内野球を語る− 第3話 |
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| 月明かりに「心の目で打て」 | ||
菅原は竜ケ崎一が母校。捕手として活躍したものの、脚光を浴びることもなく一九五七年春に卒業。社会人で軟式野球をしていたころ、母校で校長をしていた真船始(故人)から直接依頼を受け、OBからも強く推され、六四年に野球部監督に就任した。 「自分自身、甲子園を経験していなかったので、どんなチームを作ったら甲子園に行けるのか考えた」。その結果が「練習だけはどこにも負けない」ほどのスパルタ野球だった。 「基本の投げる、打つ、捕るの反復練習を繰り返したため、練習時間が足りなかった」。授業終了を知らせるチャイムが鳴る前からグラウンドに立ち、腕時計をにらんで選手たちを待ち構えた。校舎から出てきた部員はグラウンド脇の部室に飛び込み、すぐに着替えをして出てきた。 「目で見えなければ、心の目で見ろ」。月明かりの下で打撃練習までした。雨の日は教室に選手を集め、黒板を使って戦術を教えた。 その努力はすぐに結果となって現れ、監督就任からわずか二年後の六六年に甲子園へ。同校にとって実に四十四年ぶりの快挙だった。強豪・取手一の田中国重や取手二の木内よりも先に、甲子園監督にその名を連ねた。 九年後の七五年には、右腕・関口が初戦から決勝までの五試合すべてを完封に抑える活躍で、二度目の甲子園を達成した。 この大会では秋・春の県大会で二度も負けた準々決勝・磯原との試合がチームにとってキーポイントだった。「珍しく試合前にミーティングをして、勝てるように選手に暗示をかけた」。菅原野球の秘話を明かす。 二度目の甲子園を実現した直後、六六年に優勝したメンバーで、自分の下でコーチとして野球を学んでいた持丸修一に監督の座を明け渡した。持丸については「守備はうまかったが、甲子園ではフライを落球したなあ」とニヤリとする。 監督引退の二年後に、取手二の木内が初の甲子園出場を果たした。 しばらく茨城放送の高校野球の解説者をしていたが、粟野から土浦日大の監督話を持ち込まれ、考え抜いた末に承諾。八三年に監督に就いた。 「私学とあり専用のグラウンドに合宿所。環境が良かったのでいいチームが作れると思った」。期待を膨らませたが現実は厳しかった。合宿所は野球部専用でなく、一般生徒やほかの運動部と同じ寮。しかも学校からバスで四十分離れた出島村(現・霞ケ浦町)にあった。 バスの送迎時間や食事時間も決まっているため、満足に練習も出来なかった。「竜ケ崎一の方が倍以上の練習ができた」とぐちをこぼした。 さらに「食事のメニューも、運動選手が食べるようなものではなかった」。最初の仕事は寮の食事改善することだった。 選手も自分の足で探した。そのころ木内は選抜大会(八四年)に明野とともに出場し、準々決勝まで勝ち進み、その勢いで夏の甲子園の決勝で、PL学園を破って全国制覇。木内野球が開花していた。 それでも竜ケ崎一時代の菅原野球を慕ってくれた父母の協力もあり、木内の誘いを断って入部した優秀な選手もいた。そして八六年に三度目の甲子園を勝ち取った。その後は、常総・木内の前にことごとく敗れ去り、それが最後の甲子園となった。 「勝って当たり前」の私学野球。そして周囲の雑音も悪影響を及ぼし、知らず知らずのうちに体に負荷がかかっていた。突然の心臓発作に見舞われ、ついにドクターストップ。二〇〇〇年十二月に引退した。 二十歳代の監督のころ、県南地区の監督が集まった席で、「木内さんが当時強かった水戸地区のチームを何とかするため、水戸地区と練習試合した学校からスコアブックを集めてデータを分析していた」という。また木内、粟野の三人で酒を飲んだり旅行に出掛けるなど親交を深めたが、野球の話題になると、互いに自分のチームのことだけは言わなかったという。 木内野球について、「一度盗塁に失敗してもまた盗塁を仕掛ける。普通では考えが及ばない野球をしてきた」「木内さんの野球を恐れていた。木内さんに名前で負けていましたよ」と、現役時代を振り返る。 同じ私学で監督をしたが、「常総は野球をする上で最高の環境だが、木内さんだから、そういう環境になった」とみる。 その木内に代わって、教え子の持丸が監督に就く。「持丸も大人になった」と。 今年の夏の大会では、木内の姿を一目見るため、監督引退後、初めて球場に足を運ぶ。(敬称略) |