−木内野球を語る− 第4話 |
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| 「野球のち密さ感じた」 | ||
一九七八年夏の県大会が、木内との初めての試合だった。当時は岩井で指揮を執っていた。4回戦で第二シードの取手二とぶつかり、結果は0―10のコールド負け。完敗だった。取手二はその年、二年連続して甲子園出場を果たした。「なんてパワフルな野球なんだろう」。それが木内野球の第一印象だった。 その後、八三年六月に岩井市営球場の竣工式記念試合に、あの「攻めだるま」の威名を持つ、故・蔦文也監督率いる池田(徳島)が来県。本県代表として取手二と岩井が戦った。 間近で池田を相手に戦う木内の野球は、試合の重要なポイントに選手を小刻みに代え、強豪・池田の攻めを封じ、自分のペースで試合を進めていった。 「非常に計算された、なんてち密な野球をするんだろう」。木内野球のイメージがガラリと変わった瞬間だった。ゲームは池田の水野(元巨人)を攻略した取手二が8―2で勝利した。 八七年春の県大会では、佐竹の監督として、選抜大会から帰ってきた木内の常総学院と3回戦で対戦。3―4のまま迎えた最終回にホームスチールを決め土壇場で同点に追いついたが、延長戦で本塁打を打たれサヨナラ負け。どうしても木内には勝てなかった。常総はその年の夏、甲子園で準優勝した。 「木内さんの野球はレベルが高く、そっくりそのまま見本にもできなった。自分たちのチームレベルが低かったから」。早くから木内野球を見抜きながらも、それを打ち負かすまでの力はなかった。 大きな転機となったのが水戸商の監督就任。歴代の監督はほぼOBで占められていた。OB以外からの監督は二人目、異例の抜てきだった。「名門を復活して甲子園に出場する」。新たな目標に向かって野球に打ち込んだ。 何度も木内の前に敗れ去りながらも、試合の課程で「木内野球を倒すために学び続けた」と話す。 一方的な試合から、しっかりとした手応えを感じ始めたのが、選抜大会で実に三十二年ぶりに甲子園出場を果たしたあ九二年の夏の県大会。準々決勝で1―3で負けたが、「五分でいける」と体感した。翌九三年の夏の県大会では決勝の大舞台で対戦。金子(現・日本ハム)ら大物選手の前に0―2で敗れたものの、五人の走者を盗塁やけん制でアウトにした。「試合内容はうちの方が一方的に押していた」 「二年連続して負けはしたけど、勝てそうな気がした。木内野球が見えてきた。木内さんは別格だと思っていたが、何とか追いつき、背中が見えてきた感じがした」と、当時の心境を語る。 それが結果となって表れたのが、二〇〇〇年夏の県大会・決勝戦。常総は初回に2点、5回に1点を加え、7回まで3―0とリード。だれもが木内野球の勝利を確信していた。 「木内さんは3点を取ったら一気に引き離しにかかるはず、なかなか追加点が取れなかった」。案の定、安打で本塁に生還する走者がアウトになり、1死三塁のピンチの場面で、木内はスクイズをせずに打ちに出たためチャンスをつぶした。「4点目を取られたら負けになる」。試合の流れを読んだ。 好投していた相手投手が終盤に入って乱れ、それに乗じて反撃、8回裏に5点を挙げ、5―3の逆転で勝利した。 過去の対戦で、木内のスクイズを見極め外した場面があった。そのため木内は警戒してスクイズをしなかった。夏の県大会では過去六回の決勝で、いずれも勝利していた木内が、初めて決勝で負けを喫した。 互角の試合をするうちに、木内の方からいつしか「だめだめ橋本さん、おれの手を読まれちゃって」と冗談交じりの言葉をかけらるまでになった。 九七年六月に日米対抗高校野球が県内で開催。茨城代表の監督は木内。コーチと一緒にベンチに入った。試合前の夜、木内が差し出したB4の用紙二枚には、選手二十人のメンバー表のわきに、さまざまな試合展開を予想して、事細かい選手起用法について、びっしりと書き込まれていた。 選手一人ひとりの能力や性格を、的確に把握していた。「あらためて木内さんの野球のち密さを感じた」 最後の甲子園となった〇一年の選抜大会。木内と持丸修一の藤代と三校同時に出場した。その時、木内は二人に向かって「おれはもう何度も来れるわけではない。二人でこれから頑張ってくれ」と励まされた。 八八年に水戸商の監督に就任以来、十二年間の間に春、夏合わせて計七回、甲子園に出場。うち九九年の選抜大会では、決勝戦までコマを進めた。木内野球を研究した結果、全国レベルの野球を身に付けていた。 木内野球から学んだ「橋本野球」が開花し始めた矢先の〇二年、八郷に異動となり、木内より一足先に高校野球に別れを告げた。 |