−木内野球を語る− 第5話
「今年も優勝するよ」
 学校経営に県議と多忙な日々を送っている桜井富夫氏だが、就寝前の読書を欠かすことはないという=八郷町の自宅で
桜井富夫【さくらい・とみお】1958年(昭和33)に土浦一高卒。早稲田大学中退。95年(平成7)から常総学院理事長、自民党所属の県議4期。現在、県議会副議長。野球部の総監督でもある。
 木内幸男を取手二から常総学院にスカウト。「木内野球」を見事に開花させ、全国にその名を知らしめるとともに、茨城の野球レベルをアップさせた。高校野球に対する情熱、思い入れは、現役監督をもしのぐ。「木内野球」にいち早く着目した人物でもある。
 二人の出会いは同じ母校の土浦一。OBの木内が指揮する野球部の門をたたいた。同級生には安藤統男(元阪神タイガース監督)がいた。「戦略的な野球をしていた反面、色気がなくひたすら体力増進。精神力やスパルタで選手を鍛え抜いていた」という。
 進学校とあり、「文武両道」は建前で勉学がすべてだった。そのため部活動への締め付けは厳しく、「授業では教師が部活の生徒を集中的にいじめていた」。そんな環境に耐えきれず二カ月後に退部。木内も勉学優先の学校側と対立し母校を去った。
 高校生活最後の一九五七年。第39回大会では、監督・木内から島田実にバトンタッチした土浦一は、北関東大会で高崎(群馬)を破り、初めて夏の甲子園出場を果たした。
 吉報はすぐに土浦市内に広まり、土浦駅前から真鍋の学校までの通りを、甲子園出場を祝ってナインを取り囲むように市民がちょうちん行列し、祝ったという。
 常総学院設立の際は、「野球部監督は木内。それ以外は認めない」。その決意は固かった。「土浦一OBが県内の各高校の監督を務めていた時代だった。その人間関係を大事にしたかった」。
 それに「木内は一年生から三年生まで、すべて平等に指導し、ポジションを固定化させない。一軍も二軍もまったく同じ。大人の考えを押しつけるのではなく、子供のキャラクターを大切にしている。だから厳しい練習にも耐えられる」。木内野球を常に見守ってきた。
 木内が移った取手二は当時女子校だった。その後、男女共学に。「木内を慕って選手が集まり共学につながったのでは」との見方もする。
 しかし取手二の置かれていた環境は厳しく、強豪校がひしめく千葉県に、地元の優秀な選手が利根川を越えていき、部員も満足に集まらなかった。「木内が土浦一にそのままとどまっていたなら、今のような野球はなかっただろう。進学校、女子校での野球を経験し、個人を尊重し才能を伸ばす指導方法を経て、木内野球が生まれた」と話す。
 取手二に骨を埋める意思が強かった木内を口説き落とした秘策は、なんと「吹聴作戦」。八三年四月に常総学院が開校。その前年の四月から七月にかけて、野球関係者に「常総の来季監督は木内だ」と言いふらした。その話は木内の耳にもすぐに届いた。同年八月三十日に木内に電話すると受話器から「君か、常総に行くと言いふらしているのは」。怒鳴り声が最初のあいさつだった。
 それから二十六日間連続して飲み屋に連れ出した。会話には「常総に来いとは一度も言わなかった」が、木内を心底慕う想いを送り続けた。根負けした木内は「おまえみたいなしつこい男はいなかった。おまえに全部、おれの人生をやる。おまえに任せる」が返事だったという。
 八四年の全国大会で取手二はPL学園を破り、本県勢として初めて夏の甲子園を制覇。その決勝にコマを進める大事な準決勝・鎮西戦の試合前に、木内から「準決勝の朝に校長に辞表を出す」と電話が入った。
 木内は〇一年春のセンバツで全国制覇するなど、常総の監督として春夏通算十三回の甲子園出場を果たした。しかし、学校側ではこれまで一度も優勝パレードや華やかな式典は実施していない。「(子供たちは)これから人生を歩んで行く。スターになったわけではない」と。
 「全国一の野球」に特化してもあくまで平静を保つ姿勢は、土浦一で培った伝統が脈々と流れている証しでもある。
 それとセンバツを制した大会には、藤代、水戸商と本県から三校が出場、ともに初戦を突破した。「あの結果を見ても、木内野球が茨城の野球レベルをぐっと押し上げたことを証明している」と確信する。
夏のチーム予想は「死角はない。今年も優勝するよ」 =おわり


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