「土浦中学・野球の記録」制作
戦後最初のエース 前野宗次郎さん(72)


同期生で作成した「土浦中学」の旗章が入った帽子をかぶる前野宗次郎さん
 ●練習場は石岡高等女学校
 土浦一高野球部は、学校創立の一八九七(明治三十)年と同時に創部された。県内では水戸一高に次いで二番目に古い。同高創立六十周年の一九五七(昭和三十二)年に夏の甲子園出場を果たした。
 終戦の翌年に野球部の活動が再開、当時は旧制中学。戦後最初の部員の中に前野宗次郎さんがいた。最初の練習場所は、同校のグラウンドではなく、石岡市内の県立石岡高等女学校(現・県立石岡二高)だった。
 燃料の石炭不足から土浦までの汽車がたびたび運休、登校できない状態が続いた。石岡市は野球が盛んな土地柄だったため、終戦の年の秋に戦地から戻ってきた市内に住む野球部OBらを中心に、同女学校のグラウンドで生徒を集めて練習を開始した。
 偶然にも前野さんの住まいも同市内にあったため、練習に参加した。「練習と言ってもキャッチボールぐらいだったが、また野球ができるということで感激していた」。前野さんは、当時を振り返る。

 ●あだ名は「ミラクル前野」
 四六年に正式に部活動が再会した時は、戦時中の食糧難から畑に使用していた同校グラウンドを、練習場に整備することから始まった。OBたちも野球道具や部員のためにコメの差し入れをした。
 「野球部が再開しても、部員は野球未経験者が多かった。熱心に足を運んでいたOBは軍隊で鍛え抜かれていたので厳しかったが、選手には熱心に指導してくれた」と前野さん。内・外野でマンツーマンで野球を基礎から教えていたいう。
前野さんは、戦後最初のチームのエース。「スピードは一三〇`には届かなかった」と言うが、サイドハンド、アンダースロー、スリークオーターなど、投げ方は多彩だったため「ミラクル前野」のあだ名が付いた。球種も当時としては珍しいカーブや、自然に落ちるボールが武器だった。
 選手として最後の年の翌四七年は、主将として夏の県大会に挑んだ。三回戦で水戸二工(現・水戸工業)に3―4で惜敗。しかし県大会ベスト8だったため、「摂政杯争奪大会」という関東大会出場のチャンスをつかんだ。
 試合会場は群馬県桐生市内の新川球場。チーム初の県外遠征試合、そして初めて本格的な野球場でプレーできる経験もした。
 当時、二年後輩には木内氏がいた。前野さんは「試合でのプレーは記憶にないが、当時ショートを守っていた木内は、肩が非常に強かったのが印象に残っている」と思い出を語る。
 今年の夏は、後輩の木内氏の活躍をテレビを通して声援した。「いつもテレビでは木内のさい配を予想しながら興味深く見ているが、その予想はいつも外れ、違う戦法で見事に勝った」と、木内野球を絶賛する。

 ●落ちこぼれなんか関係ない
 その後、前野さんは早稲田大学に進み、五〇年の土浦市営球場での球場開きとして行われた早慶戦で、先輩の故・嶋田実氏とともに選手として出場した。
 木内氏が取手二で全国制覇し、常総学院に移った八七年。木内氏は先輩の前野さんからの依頼で都内で講演をした。「成績が悪い子供ほど指導すれば心に響くぐらいに温かい気持ちが返ってくるし、また素晴らしい才能を発揮することもある。社会に出れば落ちこぼれなんか関係ない」。今も木内氏のスピーチを思い出す。
 前野さんは木内野球について、「監督の指示する事を選手がよく理解している。普段の実践的な練習の積み重ねの結果が、木内マジックとなって表れている」と指摘する。
 戦後の混乱時期にもかかわらず野球ができたことに前野さんは、「戦争が終わったこともうれしかったが、ボールを握れたことに幸せを感じた」。そんな時期に木内氏もプレーしていた。
 土浦中学最後の卒業生でもあった前野さんは、チームメイトで捕手だった色川弘氏からの誘いで、戦前の日本野球と旧制中学時代の歴史をまとめた「土浦中学・野球の記録」を制作、青春時代を後世に伝えた。
(スポーツ面に掲載しています)


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