「土浦一高野球の記録」作成へ
「土浦中学野球の記録」制作者 色川弘さん(72)


戦前の日本の野球史についても詳細に紹介した「土浦中学野球の記録」を手にする色川弘氏

●1枚の古い写真から始まった
 旧制土浦中学(現・土浦一高)時代の最後の野球部OBの1人。球児でもあった色川弘氏(72)は出版社を退職後、趣味で好きな野球の歴史をコツコツと調べていた。
 1999(平成11)年春ごろ、東京ドーム内にある野球体育博物館の図書館で、「野球年報・明治37年版」のページをめくったところ、「土浦中學野球部選手」の写真が目に飛び込んできた。写真説明を読んでみると、色川氏が選手時代にグラウンドで大声を出しながら一喝していた故・冨岡良三氏の若々しい姿だった。
 冨岡氏は土浦中学野球部OBで、戦前の1929(昭和4)年と翌30(同5)年に、水戸中学(現・水戸一高)の野球部長として甲子園に出場した人物。
 色川氏が在学中の監督はスパルタ指導の大川長治氏(86)だったが、冨岡氏はその大川監督よりも「下手くそ、気合いを入れろ!」といつも練習に熱がこもっていた。冨岡氏について「厳しい先輩でしたが明るくユーモラスでもあったので、練習に顔を見せないと寂しいと感じるぐらいの存在感がありましたね」(色川氏)。
 冨田氏の強烈なキャラクターに引かれるように、戦前の野球の歴史をひもとく作業が始まった。

●野球に熱狂した明治時代、対外試合禁止に 色川氏が資料集めの中で最も驚いたのが、明治時代は日本が今以上に野球に熱狂していたこと。それは、試合のたびに全国各地で両チームのファンや応援団による衝突が起こっていたことに象徴されていた。
 現在、夏の甲子園大会を主催している朝日新聞でさえも、1911(明治44)年に「野球界の諸問題」で野球害毒論を掲載。これが教育関係者の間に野球賛否の議論を高めた。
 県内では1904(明治37)年に土浦中学の呼び掛けで、水戸、下妻、太田、水海道、竜ケ崎の各中学で第1回の県下連合野球大会、いわゆる公式戦が始まったばかりだった。
 しかし野球害毒論の影響で大会は6年目から中止に追い込まれ、「一球入魂」の飛田穂州を生み出し、県内で最初に野球部が誕生した水戸中学(現・水戸一高)でも、当時の校長が野球応援に絡むトラブルを未然に防ぐため、同高は独自に1902(明治42)年から1924(大正13)年までの17年間、対外試合を禁止にした。
 その後、朝日新聞は一転して1915(大正4)年に第1回全国中等学校優勝野球大会(現・夏の全国選手権)を主催するが、1923(大正12)年に下妻中―真岡中(栃木県)との試合で乱闘事件が起こり、本県では2年間、対外試合は禁止となった。

●新たに「土浦一高野球の歴史」作成へ
 日本で最初に野球が始まったのは1872(明治5)年。第一大学区第一番中学(現・東京大学)のアメリカ人で英語・数学教師のホレェス・ウィルソン氏が、学生にベースボールを教えたのが最初とされている。
 色川氏は野球が国内に浸透した理由について、「そもそも国内最高学府で野球が始まったことが、右に習う形で柔道や剣道のように国技に近い形で、全国各地の学校に広まったのでは」と分析する。 現在、色川氏は土浦中学時代の続編「土浦一高野球の記録」(仮称)作成にも取りかかっている。
 戦後間もない時期に色川氏は、後輩でもある名将・木内幸男氏(72)と一緒に練習をした。捕手だった色川氏は、木内氏の強肩ぶりにうらやましさを感じたほどだったという。
 9人きょうだいの長男の木内氏。その弟たちは、土浦一高や取手二高で球児として活躍した。色川氏は「木内さんの独特の戦い方とも言える野球哲学は、その家庭生活の中で培われたのでは」との見方をしている。
 新たに始まった記録作りでは、戦後から1975(昭和32)年の甲子園初出場、それに今年夏の県大会で41年ぶりのベスト8を果たした後輩の奮闘ぶりに加え、名将・木内氏の選手やコーチ時代の初々しい姿も克明に書き記す予定だ。

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