| 55年秋の県大会で初優勝 | |
元土浦一高野球部監督 大川長治さん(86)
戦前と戦後間もなく、土浦市の大川長治さんは土浦一高野球部監督(当時は土浦中学)を務めた。木内幸男氏を指導した恩師でもある。 当時の教え子の口からは「チョーさんの練習は厳しかった。ノックが多かった」と嘆く声が多いが、本人は「野球を知らない選手がほとんどだった。基礎から野球を教えたので苦労をしたよ」。スパルタ野球をしたという認識はない。 チームは一試合で十個以上のエラーを記録した。徹底的に守備を鍛えるため、大川さんの練習では必ず一人百本を超える個人ノックが日課だった。 同高野球部では、大学野球を経験した歴代OBが指導する伝統が続いていたため、OBがグラウンドで高度な野球を徹底的にたたき込んだ。 大川さんは一九三四(昭和九)年に同高野球部で外野手としてプレー。卒業後は実業団の「水戸鉄道管理局」で活躍し、現役を退いた後は実家の土浦市内で紙器製造を手伝いながら、四一年に「ボランティア」で野球部監督に就任。 翌年には戦争が激しくなり、兵役に就き満州へ。中国・大連でも野球好きな兵隊らと野球を楽しんだという。終戦を迎えた四五年に野球部の活動が再開されると、大川さんは再び監督を四八年まで務めた。 ●下手なのでポジションを代えさせた 戦後直後のチームは「野球をほとんど知らない部員が多く、とんでもない連中を預かった」(大川さん)との思いが強かった。その中に木内氏もいた。木内氏は四五年に、旧制土浦中学に入学したばかりだった。 当時、大川さんの目に映った木内氏のプレーは、「ショートを守っていたが、うまい選手とは言えなかった。むしろ下手だったので、ポジションをセンターに代えさせた」と振り返る。 厳しい練習で、他の部員が緊張しっぱなしの中で、木内氏だけは「神経が図太く、エラーをしては私が怒っても、意外とひょうひょうとしていた」という印象が、今でも残っているという。 大川さんの後任には立教大OBの故・市村要氏が監督をしていたが、市村氏は家業の手伝いで練習にはあまり顔を出さなかった。そのため木内氏が選手兼コーチ役へ。木内氏の熱心な指導は、これまでOBを頼りにしていた伝統的な練習方法をガラリと変えた。 五三年に木内氏が監督にとなり、五五年秋の県大会で、同校は創部以来初めて優勝を成し遂げた。大川さんは「一高の監督は名前だけだったことが多く、私も現役の選手時代には正規の監督がいる、ほかのチームがうらやましかった。その意味では木内が名実とも監督として仕事をしっかりしていた」と語る。 ●手元に残る宝物のサインボール いつの間にか、市村氏らOBの高度な大学野球を木内氏が選手時代から体得し、その後の五十年にも及ぶ監督業で「木内野球」を築き上げた、と大川さんは指摘する。 今年の夏の甲子園が始まる直前に、掛かり付けの医者に大会予想について質問された。大川さんは「今年は木内の常総が優勝するよ」と返事したという。 戦後に再開した野球部には備品が少なかった。そのため、大川さんは趣味で集めていた、大学野球で活躍する選手らが書いたサインボール十個を、練習球として提供した。 今、手元には宝物のサインボール三個だけが残っている。そのうちの一つは、大リーグ選抜として三四年に二度目の来日をしたベーブ・ルースの直筆サインボールだ。 |
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