| 当たり前だった「スパルタ野球」 | |
木内氏と同級生 小林昭夫さん(70)
木内幸男氏(72)とプレーした小林昭夫さん(70)の野球部の思い出は、「監督のチョーさんが非常に印象的だった」という。 チョーさんとは、戦後に再開した直後の野球部監督を務めた大川長治氏。内野の二塁手だった小林さんは、練習での大川氏の厳しい個人ノックを、今でも鮮明に覚えている。 小林さんは「とにかくチョーさんのノックはきつかった。一人に120本ぐらいのノックをした」という。練習の手伝いをしていたOBからは、「目が黒いうちは、まだ大丈夫だ」との声まで飛び出すほどだった。 正確に捕球するため素手でボールを捕ったり、打球にすばやく反応するように守備位置を打席近くまで寄る練習までしていたという。部員が練習に遅刻すると、グラウンドに選手全員を一列に並べ、ノック用のバットで頭でたたかれた。 当時の野球指導は、どのチームも鉄拳が飛び出す「スパルタ野球」が当たり前だった。それに加え土浦一は、竜ケ崎一、石岡一と肩を並べるほど県南地域では強豪で、ライバルを打ち勝つために練習に熱が入っていた。 ●選手兼監督としてチームをまとめた木内氏 そんな大川氏は、厳しい指導の合間にも、選手一人ひとりに指導したりアドバイスしていたという。そして小林さんが二年生の1949(昭和24)年。夏の県大会直前の練習中に、大川氏が大会終了後に監督を退くことをミーティングで伝え、最後に「これまで怒鳴ったり、怒ったりしてすみませんでした」という言葉が、今も脳裏に焼き付いているという。 小林さんは「本当に人情味のある監督だった」と話す。 大川氏の後任には、同校OBで立教大学から「オール京城」という社会人野球の監督を務めた故・市村要氏が監督に就いたが、小林さんによると「市村さんは家業の関係から、あまり練習に顔を出さなかったので監督として印象は薄い」と話す。 そのため監督は実質的に、秋の新チームから主将となった木内氏が、選手兼監督という、いわゆる「プレーイングマネージャー」として、チームをまとめることになった。 小林さんによると、選手として木内氏について「小柄な体ながら強肩で俊足だった」という。中堅手の前は遊撃手だった木内氏は、内野ゴロを一塁に送球した際に、時々悪送球になると「行っちゃったー」と声を張り上げた。「ちょっと、おっちょこちょいなところがあったよ」と笑う。 しかし、同校グラウンドで練習試合のため招待した相手のチームを、校舎内の更衣室(教室を借用)まで案内する木内氏の振る舞いを見て、小林さんは「てきぱきと先輩の指示通りに校舎内に案内するなど、社交的な性格で考え方も私らよりもずっと大人だった」。同級生でも一目置いていたという。 ●ただになっても監督は続けるつもり 木内氏が取手二の監督として、初めて甲子園に出場する77年の直前に、土浦市内に住む同級生らが激励の気持ちを込めてノートに寄せ書きし、木内氏に手渡しという。 小林さんはその際、「甲子園に歴史を」とメッセージを記した。「まさか甲子園に20回も出場して3度も全国制覇するとは…、文字通り甲子園に歴史を残すなんてね」と驚く。 そのほかにも、取手二の監督時代に木内氏から、「給料が半額になるみたいだ。でもただになっても監督は続けるつもりだ」。そんなエピソードがあったことも打ち明けた。 木内氏とはゴルフ仲間で今も一緒にコースを回っている。「木内さんはゴルフが終わっても直接自宅には戻らず、必ず野球部の練習場に顔を出す。私たちはネット裏でお茶を飲みますが、木内さんはマイクを持って選手をどなっていた。本当に野球が好きな人ですよ」(小林さん)。 |
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