「おれたちの代が一番強かった」
元中日ドラゴンズ 岡野義光さん(64)


テニスの指導者として今もコートに立つ岡野義光さん=9月18日、つくば市内で
 ●選手の個性や特徴を引き出す
 木内幸男氏(72)が母校・土浦一高で監督をしていた最後の教え子の一人。入学した一九五四(昭和二十九)年の秋から、一年生ながら強肩を生かし捕手に抜てきされ、そして天性のバッティングセンスから攻撃の中心選手としても活躍した。
 岡野義光さん(64)は当時の木内氏の指導について、「今と同じように、当時も選手一人ひとりの個性や特徴を生かして、それを引き伸す指導をしていた」という。打撃センスが持ち味だった岡野さんに木内氏は、新品のバットが入ると上級生よりも先に、岡野さんに打ちやすいバットを選ばせる配慮までしていたという。
 練習の時も「木内さんは自分でグラウンド内で体を動かし、本当に細かく指導をしていた」と、熱心な指導ぶりを明かす。
 岡野さんが二年生になると、土浦一高の総監督を務めていた故・市村要氏から、市村氏の母校・立教大学で、当時選手だった長嶋茂雄氏らと練習を共にする貴重な経験もした。
 木内氏が同校監督として最後に指揮したのが、岡野さんが二年生だった秋の県大会(一九五五年)。決勝で江戸崎を3―0で下し、創部以来、すべての公式戦を通じて初めて県大会を制した。岡野さんは「この時ばかりは木内さんも感激して喜んでいた」と当時を振り返る。

 ●実家の倒産で木内氏が監督辞任
 選抜出場をかけた関東大会では、初戦の成田に序盤に5点をリードを許し2―6で敗れた。初めての関東大会、さすがの木内監督も緊張しっぱなし、「あの大会では一番上がっていたのは木内さんだろうね」と、今でもOBらの間で語りぐさになっているという。
 「このチームで夏も制覇できる」。木内氏も選手たちも確かな手ごたえを感じていた。しかし、年明けに練習を再会しながら、そこには木内氏の姿はなかった。OBから「木内さんが監督を辞めた」と衝撃的な事実を知らされた。
 岡野さんらナイン全員、「あんなに熱心だった木内さんが監督を辞めるなんて」と、あ然として言葉が出ない状態だったという。
 後に木内氏の実家の下駄屋が倒産したことが伝わってきた。最後の夏の大会は、市村氏が代わって指揮を執ったが、準決勝で水戸一に0―5で敗れた。
 一年生には阪神タイガースに入団し監督も務めた安藤統男氏ら優秀な後輩もそろっていた。そのため岡野氏は「今でもOB会では、『一高野球部の歴史の中では、おれたちの代が一番強かった』と自慢してますよ」と鼻息を荒くする。
 「もし木内さんがそのまま監督を務めていたら、甲子園にも行けたはず。いい選手がそろい始めた時に監督を辞めた。木内さんも辛かったのでは」。岡野さんは苦しかった当時の木内氏をを思いやった。

 ●みっちり野球の基礎指導を受けた
 岡野さんは、卒業後も明治大学で野球を続け、その後、社会人野球「三協精機」(長野県諏訪市)でのプレーがプロのスカウトの目に止まり、六二年秋に中日ドラゴンズに入団。翌年のペナントレース。広島カープとの試合で代打として出場。逆転の3ランホームランを放つ活躍をした。チームの連敗を止める貴重な一打となった。
 高校時代、左足をねんざし走塁がままならない岡野さんに、木内氏は「それじゃ、全部ホームランを狙うつもりで行け」と指示。その通りに本塁打を放ち、自分自身驚いたこともあった。半面、ヒットを打っても「なぜあんた球に手を出したのか」と厳しく怒られもした。
 岡野さんは「木内さんにみっちり野球の基礎を指導を受けたので、プロの世界でも役立った」としみじみと語る。岡野さんは現在、つくば市体育協会テニス部長として活躍している。


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