| 監督就任3年目で甲子園出場 | |
元下館一高監督 菊池 節(たかし)さん(70)
木内幸男氏(72)とはざっくばらんに話せる球友で、個性あふるれる名物監督の一人だった人に、菊池節さん(70)がいる。 出身は日立市川尻町。日立一高から茨城大へ。卒業後は体育教員として北茨城市立中郷中学に赴任。そのころ、土浦一高野球部長を務めた故・桜井賢司氏が下館一高の校長に就任。同校野球部を立て直すために、監督を探していた。 その桜井氏の同級生が、偶然にも菊池さんの大学恩師だったため、恩師を通じて監督を頼まれ、中学教員を10カ月だけ勤めただけで下館一高へ。「グラウンドに行ってみると、とても練習できるような状態ではなかった」と菊池さん。 最初の仕事がグラウンド整備だった。土をすべて掘り返し石を取り除く作業が秋から春まで続いた。水はけの良いグラウンドに変えた。農繁期になると家の手伝いのため選手が練習を休むため、それを見かねてチーム総出で農作業することもあった。 1959(昭和34)年。就任3年目、27歳で甲子園出場を果たしたが、その栄光を獲得するために、菊池さんはさまざまな練習をしていた。その一つが「地獄の合宿」だった。 夏の大会前に選手らは下館市内から合宿先の中郷中学まで、距離にして約70`を自転車で丸一日かけてペダルをこぎ、そして缶詰状態で特訓を受けた。菊池さんは「厳しい練習だったから選手が逃げないように、わざわざ遠隔地にした」と話す。それでも練習に耐えきれず、電車に乗って逃げ出す部員がいたほどだった。 ●「肝試し」を練習に加える その一方で、下館一高の教員の中に立教大OBがいたため、その関係から現役の同大学の選手がコーチ役として選手を指導。菊池さんが選んだ数人の部員を、立教大野球部に行かせて高度な野球技術を体得させるなど、当時としては例のない練習方法で話題を集めた。 がむしゃらに練習を積み重ねて甲子園に出場したが、菊池さんは「テレビがなかったから、甲子園を見るのはもちろん、やることすべてが初めて」。甲子園でのノックでは外野フライの打球がスタンドに入るぐらいで、「平常心なんて保てなかったね」と回顧する。 1966年から、菊池さんは土浦一高の監督を21年間務めた。そこでは選手のメンタル面を鍛えるため、「肝試し」を練習の一つに加えた。 同校在任中の1978年の夏の県大会4回戦。土浦日大の試合で、送球妨害をめぐってゲームが中断。日没となったため再試合に。県高校野球史に残るゲームを経験した。菊池さんは「当時の審判の判断に問題があった」と語気を強める。 翌年の79年の春の県大会県南地区予選では、2年連続甲子園に出場した木内氏の取手と、故・粟野武のが土浦三の代表決定戦の試合をネット裏で観戦。 ところが試合途中で突然ゲームセット、9―0で土浦三が勝利した。実は木内氏が代打のため選手交代を告げたところ、登録していた選手と背番号が一致していなかったためルールの規定で没収試合になった。 ●名将を前に堂々と持論を展開 菊池さんは「木内さんはさばさばとした様子で球場を後にした。木内さんは『このチームじゃ、甲子園行っても勝てないよ』などと言っていた。気持ちの切り替えが早い人」と話すが、相手の監督がベテランの粟野氏だっため「木内さんも粟野さんには文句は言えなかったから、早々とあきらめたのだろう」と付け加える。 教員退職後の1988年に土浦二高の初代野球部監督に就任。65歳の年齢などものともせずに、自らバッティングピッチャーやノックもした。そのためベンチでさい配をふるう木内氏に「ノックができないようじゃ監督ではない」と、名将を前に堂々と持論を展開する事もあった。 土浦二高野球部の発足時には、備品類が不足、満足に練習できないため、木内氏からボールやバットなどの提供を受けた。 自宅が土浦市内だったので高校野球から退いた後も、土浦一高や土浦二高の野球部員が、早朝に菊池さん宅を訪れ、素振りなどをしてから登校する。「私も一緒にバットを振ってます」(菊池さん)。 現在、茨城大農学部で体育講師を務めている。 |
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