土浦一高から木内氏スカウト
元取手二高野球部長 田口五郎さん(88)


木内氏をスカウトした時代は田口さんは熱血教師として奔走していた=水戸市新荘の自宅

●男子生徒集めるため野球部創設
 取手二高野球部の創設者で木内幸男氏(72)を監督として招へい。野球部の強化など木内野球の基礎を築いたのが田口氏だった。
 1949年の学校再編で女子校だった取手二高は共学になったが、同校では「男子生徒を集めるには野球部は必要不可欠」。軟式野球としてスタートした。
 翌年には男子生徒の人数も多くなり硬式野球部となったが、指導者はだれもいなかった。監督兼部長をしながらも、教務主任の担当をしていた田口氏は「やるんだったら野球部を強くしたい」という信念を抱いていた。

●木内氏から「監督として思い切ってやりたい」
 当時、木内氏が指導していた土浦一高教頭兼野球部長が、田口氏と同じ広島大出身で先輩の故・桜井賢司氏だった。55年の夏の県大会終了後、その桜井氏から取手二高で監督を引き受けてくれそうな人物を探していた田口氏に、「熱心な監督がウチにいるぞ」と声を掛けた。
 田口氏はさっそく土浦一高に出向き木内氏の指導ぶりを見たが、「たいした人とは思わなかった」というのが第一印象だったという。その後、木内氏が桜井氏の紹介状を握りしめ取手二高を訪ね、田口氏に「野球部の監督として思い切ってやりたい」。野球に対する情熱を切々と語った。
 そのころ、木内氏の実家の下駄屋が倒産。生活が行き詰まっていたほか、また土浦一高という伝統校ゆえに、いつまでも「仮監督」という立場に歯がゆい思いを抱いていた。木内氏は56年秋に土浦一高から取手二高に移った。

●故・赤城代議士に直訴、グラウンドを拡張
 田口氏は木内氏を監督として迎え入れるため、「監督だけでは生活はできない」とし、学校側と折衝し生徒会で運営していた文具・飲食物の販売を新たに「購買部」として、木内氏の就職場所として立ち上げた。しかし「木内さんはほとんど購買部にはいなかった」(田口氏)という。
 また手狭なグラウンドは満足な練習はできず、野球部にとって死活問題になっていた。学校側からの造成費用はまったく期待できなった。そこで田口氏は面識がまったくなかった当時防衛庁長官だった故・赤城宗徳代議士に会うために都内に出向き、「茨城の玄関口である校庭を広くして欲しい」と直訴。
 赤城氏はすぐに了承し「自衛隊の演習」と称して59年の秋に勝田の陸上自衛隊が重機をグラウンドに持ち込み、約3カ月の工事で3千坪から4千5百坪に拡張、県内でも屈指のグラウンドに生まれ変わった。工事費用はゼロだった。

●ピッチングコーチの本田氏も引き入れる
 社会人野球「東京ガス」の投手として活躍し、その後木内氏とともに常総学院に移った本田有骼=i74)も、ピッチングコーチとしてスカウトした。
 また選手獲得にも奔走し、勉強が苦手ながら将来有望視される中学生を自宅に集めて、受験勉強のための勉強の面倒までみた。後に中日ドラゴンズに入団した千葉県柏市出身の矢沢健一氏も、田口氏の誘いで取手二高に入部するはずだったが、直前になって千葉県内の高校に引っ張られた苦い経験も。
 田口氏の予想通りチームはめきめきと力を付け、62年の夏の大会では東関東大会までコマを進め「甲子園出場」が手に届くまでになったが、習志野に6―16で惨敗。田口氏はふがいない試合内容に怒り心頭。木内氏や選手より先に球場を後にした。その後、田口氏の自宅庭先に木内氏と選手全員が集まり、頭を下げて謝罪した事もあったという。

●強豪チームに成長、いち早く共学実現する
 66年まで18年間の野球部長時代と、取手二高の教頭時代(68年―73年)には、チームは甲子園出場を果たせなかったが、同校は84年の全国制覇を含め春・夏通じて6度の甲子園を成し遂げた。
 夏に米寿を迎え家族から祝福を受け、木内氏は甲子園で3度の全国制覇で引退。「おめでとう」という言葉が続いた。同じ取手二の卒業生で妻、恵美子(70)も大の木内ファン。一緒にテレビ観戦し胴上げされる木内氏を食い入るように見つめた。「私の目に狂いはなかったようだ」(田口氏)。
 田口氏の情熱で野球部は強豪チームに。その結果、県内ではいち早く二高系の高校で男女共学の学校とし定着した。

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