幸和義肢研究所 代表取締役・横張和壽さん

歩いたら顔色が変わる

「ゴールは、今まで装着していた義足より、良かったという患者の言葉」と話す横張さん
家族は、母親の実家の水海道(現常総市)に疎開していた。父親は、戦後も当地に留まり、茨城、埼玉を中心に、医療機器販売の仕事を始めた。都内のコネクションを利用しての創業だったようだ。大型の医療機器ではなく、ハサミや注射針やガーゼなどの細かい消耗品を、病院や開業医に届ける、バイクで御用聞きするような業態だった。

終戦直後に生れ、子供のころ、父親のバイクの後ろにしがみついて、北関東一円の病院を回り、時には親しくなった病院の寮に泊めてもらう事もあった。株式会社幸和義肢研究所代表取締役・横張和壽(一九四六年生まれ)は、そこで、医療現場の現実を見たのである。

「本郷の東大の周りには、義肢屋さんがたくさん集まっていた。義足の修理を頼まれて、何度か親父に付き合ううちに、知識が身についてきた」。中学生の横張は、早くもそこで知り合った義肢専門の材料屋に、義足を作るのにどんな材料が必要かを教わった。

病院を回った経験から、医者と話せる自信はあった。横張は、二十歳で独立して、まず腰痛用コルセットを自分で作って売った。開業医が、農家の腰痛患者向けに、頻繁に発注してくれた。自家製コルセットが、月に三十個程売れた。

「二十七歳の時、コルセットしかできないのでは、自分は大きく成れないのではと悩んでいたところ、材料屋さんが、東京都で義足を研究している機関があると教えてくれた」。早速、ラブレターを書いた。水戸出身の加倉井周一先生(後の東大教授)の配慮で、毎週、水曜日だけ特別に、義足作りを教わる事ができた。注文品の材料を持って、高田馬場の東京都立補装具研究所に一年間通った。いろんな関係者が出入りしていて構造や材料を教わった。

スタッフと仲良くなり、休日、水海道のオフィスに来て、横張の仕事を手伝ってくれた。難しい仕事の注文も、ドンドン取った。さらに、埼玉県の安田幸男という義足制作の名人を紹介してもらった。横張は、人生のチャンスだと思い、安田を口説き、二人の名前から一文字ずつ取って幸和義肢研究所を立ち上げた。

子供の時から病院に出入りしていた横張が、マーケティングと営業を担当した。どんな難しい仕事も、安心して営業できた。そして、「お金が入ると、すぐ銀行に持っていった。おやじは宵越しのカネを持たぬタイプだったが、反面教師。銀行が評価してくれ、筑波の土地購入の話を持ってきてくれた」のだ。

筑波に来ないと、ブランド力がつかないし、求人もうまくいかないと考えた。人材には、それぞれの得意があり、全てのプロセスがうまい人はいない。石膏取りがうまい人、仕上げがうまい人、ミシンかけがうまい人、裁断がうまい人。それぞれの得意分野を生かす。

三年前、筑波山の近くに現在のオフィスを作った時、義肢業界、世界ナンバーワンのドイツのオットーボック社と技術提携の話がきた。富山の薬屋方式で、使った分だけ、支払えば良い。ザニテート(衛生)オフィスを作り、第一号パイロットを、幸和義肢研究所に頼みたいといってきた。筑波山近くの同社オフィスの庭で義足を試着できる。展示場と工房があってこれだけの施設を持って、三十五人の陣容でやっているところは、国内で最大規模。

ゴールは、今まで装着していた義足より、良かったという患者の言葉。「二、三歩、歩いたら顔色が変わる。喜ぶ人、怒る人。怒ったら、もう一回チャンスをくれといって、次は、絶対納得させる。患者さんの人生を変えるということが、自分の義足作りの信念です」。口をきかなかった人でも、どんな強情で気の荒い人でも、良いものを作ると「来て良かったよ」と、笑顔で帰るという。

横張は、自分の人生を振り返り「やっぱり銀行が私にいろんなことをやらせてくれたってことじゃないですか。融資がなければ、自分の力だけではできない。今後は、国際貢献をしたい。戦争被害の人の義足を作ったり、そういう国に行ってみたい。だが、作り方を教えたいが、現地に材料がない。ここに来てもらえば義足の作り方を、教えられる」と。(花山 亘 つくばベンチャー協会事務局長、NPOつむぎつくば理事、敬称略)

【会社概要】つくば市神郡字弁才天369の2。電話029・850・7055。1983年創業。資本金・1200万円。義足、義手、装具制作販売。オーダーメードの車椅子、補聴器、コンフォートシューズ等の福祉用具販売・貸与。

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