![]() 株式会社ピーターパン 酒井幸宏(さかい・ゆきひろ)さん |
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パンの街つくば
株式会社ピーターパン代表取締役会長の酒井幸宏(1933年生まれ)は、地元・新治の出身。28年前、都内から筑波研究学園都市にいち早く進出した。『パンの街つくば』は、5年程前、茨城県商工労働部長だった滝本徹(現中小企業庁経営支援課長)が、パンの激戦区・つくば市の振興策として提案したもの。これを受けて、地元ベーカリーとして酒井が発起人となり、TX開業に合わせて立ち上げたプロジェクト。 (独)農業・食品産業技術総合研究機構の田谷省三博士の指導の下、小麦粉の生産から取り組んだ。「日本人の嗜好にマッチした、水分の多い小麦の品種として開発された『キタノアカリ』を、地元の農家に生産してもらっている。そもそも、『地産地消』の考え方から言って、『四里四方』つまり約16`圏内のモノを食べると、新鮮で安心で、輸送の手間など環境負荷も減る」との酒井の強い思いだという。 そこで、さらなるステップアップを目指して、『パンの街つくばプロジェクト推進協議会』として、つくば市商工会に事務局を移管し、より本格的な活動を展開している。今年は、筑波技術大総合デザイン学科の2年生15人と、有志で集まった筑波大デザイン専攻の2―4年生の9人、合わせて24人が参加。パン屋は「パンの街プロジェクト」の参加店のうち、9社10店舗が協力しているそうだ。 大学ごとに5組ずつ10チームに分かれ、1チーム・1店舗を1組として一つのパンを作る。新しいパンの開発だけでは終わらせず、ポスターの製作や店内のディスプレーなどにも目を配り、販売促進策も考案する。完成品は、10月につくば市竹園のつくばカピオで開かれる第4回パンコンテスト会場で、コーナーを設けて発表するとともに、それぞれの店舗で販売される予定となっているという。 同事業のコーディネーター兼座長の佐山剛勇・つくばインフォメーションラボ社長は「食べることがテーマでもあり、おいしいという感覚は誰でも共通に楽しめるもの。パンを通じて一つの事業に取り組むことで、職人にはない学生だからこそ発想できるパンがあるのでは」と話している。 酒井の思いが、次々と実現していく。旧・新治村出身の酒井は、早くに父親を亡くしたが、親類の援助を受け、苦学の末、石岡一高農業科、東京農大を卒業した農業の専門家。「つくばは、確かに世界に誇る科学都市である。しかし、一歩学園地区を出れば、自然豊かな農村地帯である。何百年も永々と続いてきた農業の力を、『パンの街つくば』の計画の中に生かしてこそ、『田園都市つくば』といえるのではないか」と考えた。地元産の小麦粉は勿論、加工パンに入れるブルーベリーや、各種野菜類なども、すべて、とれたての地場のモノを使いたいとの発想である。 背後にある、リーダーとしての酒井の人間力は、いかにして醸成されたものか。今年5月に、自らの半生の記を上梓したという。タイトルは、『楽しい二流人生』。国際的ホテルマンも経験したという酒井の波乱万丈の物語は、次回に譲りたい。 パンの街つくば
学生時代、酒井は、地元茨城選出の代議士で、内閣官房副長官まで務めた北澤直吉の選挙の手伝いをした。「今後の日本は、資源の無い国として観光立国しかない。そのためにも英語をしっかり勉強するように」と薫陶を受け、代々木公園のワシントンクラブをアルバイト先に紹介してもらった。そこで取材に出入りしていた英文毎日の編集長、沢開進に認められ、酒井の波乱万丈の人生がスタートするのだ。沢開の紹介で、映画黄金期の日活が多角化経営で展開する、まだ珍しかった民間ホテルである日活ホテルに就職が内定。 現在、桜田門から銀座に向かってくると、真正面の日比谷交差点脇に見えてくる24階建ての優雅なビルは、来月1日にオープンする外資系ラグジュアリーホテルの雄、ザ・ペニンシュラ東京。もともとは、この地にあったのが日活国際会館で、上層階は日活ホテルとして使われており、石原裕次郎・北原三枝の結婚式が行われたことでも有名だった。 しかし、就職が決まって、入社のための健康診断で、結核が判明。失意の内に、故郷新治村での転地療養で奇跡の恢復。就職は既に諦めていたが、毎日の論説委員になっていた沢開に恢復の報告に行くと、鉄は熱いうちに打てとばかりに、歩いて1分の日活国際会館に連れて行かれた。毎日新聞の社屋が、まだ、有楽町にある時代の話だ。 日活の宣伝部長の石神清を紹介された。石神は、毎日の元政治部記者で、第二次大戦の戦争報道の翼賛的報道に対する自責の念により、新聞社を辞めて、日活社長の堀久作に拾われたのだった。酒井の日活への正式就職はその場で決まった。 入社後、酒井は、戦後の日活の再開の指揮を執った名物専務、最後のカツドウ屋と呼ばれた江守清樹郎に出会い心酔した。「1番手は狙わない、常に2番手。柳の下にはドジョウは2匹いる」というのが江守の口癖だった。1番手の大成功は無いけれども2番手は危険性が少ないという二流人生に納得して、俺もこれで行こうと酒井は、心に決めたという。 ページボーイからフロント会計係、営業主任と駆け上がった。その後、組合活動を経て、1年間の休職を申し出た。かねてからの夢であった海外生活を目指し、ドイツのハンブルグ市オートパークホテルに就職。日本流のマネジメントが評価され、支配人に抜擢された。 帰国して、34歳で日活ホテルを辞め、独立することにした。その理由は「サラリーマンは、上司を選べないから」だと酒井はいう。まずは、予行演習ということで、知人のピザハウスの立ち上げを任された。約1年で軌道に乗せた後、いよいよ自分の店を持った。サラリーマンが、気楽に飲める、おでん主体の割烹店である。「飲んできた客は入れない、3本程度までで、手酌で飲む」というユニークな経営が評判を呼んだ。 ここの常連に、偶然にも前出の石神の毎日新聞政治部の上司だった栗原広美がいた。栗原といえば、第二次大戦開戦予告という歴史的スクープ記事を、毎日の前身の東京日日新聞に書いた大物記者。そのころは、財界の政治資金を取り仕切る国民協会の広報部長をしていた。ピーターパンの創業は、酒井の出会ったこの3人目の毎日記者、栗原によるところが大きい。 高島屋ストアーの食堂経営を請け負う中で、焼き立てパン屋も開店するように頼まれた。だが、設備費が嵩むので、二の足を踏んでいると、居酒屋を訪れた栗原が、それならばと、大物経営者を通じて銀行を紹介してくれた。アッという間に融資が実現。ピーターパンの創業となった。都内を中心に、一時は、18店舗まで伸ばした。酒井は、東京都パン商工共同組合副理事長や(社)ベーカー協会副理事長などを歴任し、業界のリーダーとして大活躍した。そのころ話題になってきた、故郷の筑波学園都市への出店を、ふと思いついた。 スタッフ全員が反対する中、現在の吾妻店の土地を買い、出店を果たした。やがて、都内の店は整理し、現在は、筑波大出身の社長を据えた。また、パンの街つくばや、つくばセンターバスターミナル2階に共同で開店した蕎麦屋「十割そば」で、筑波ミカンの皮を使った七色唐辛子拡販を図るなど、地域振興にも精力的に尽力している。多くの人々に助けられてきた酒井には、「人は、一人では生きていけない」との強い信念がある。そして、今もピーターパン設立時のコンセプトである「貴方の街の小さなパン屋」を標榜し続けている。 (花山亘 筑波大学非常勤講師、NPOつむぎつくば理事、文中敬称略) 【事業概要】所在地:〒305―0031 つくば市吾妻3―9―20 電話029―851―3381 資本金:1480万円 設立:1971年11月11日 代表取締役会長:酒井幸宏 事業:創業1971年、つくばに出店して28年。つくば市内に、並木店・吾妻店・稲荷前店の3店舗。特に、ヨーロッパ風のパンに力を入れている。パン購入のお客には、自家焙煎のおいしいコーヒーを店内で無料サービス。 | ||
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