『茨城近代文学選集V 昭和の文学(一)』
下村 千秋(略歴は『大正の文学』参照)
 本巻に収録した「天國の記録」は昭和5年7月の『中央公論』に発表された。「街のルンペン」は昭和5年11月−12月「東京、大阪朝日新聞」に連載された。

高田 保
 明治28年茨城県土浦市内西町生まれ。土浦中学校を卒業後、早稲田大学英文科に学んだ。中学校の同級に下村千秋がいた。早大在学中は後の版画家永瀬義郎の家に寄宿し、宇野浩二、沢田正二郎らと演劇運動に足を踏み入れた。卒業後、浅草の根岸興業部に出入りし、脚本などを書いた。プロレタリア文学と共産主義運動にも関心を示した。昭和8年、東京日日新聞の社友になった。当時の学芸部長阿部真之助の助言者として大宅壮一らとともに登用された。終戦後の昭和22年、『新夕刊』紙上に書いた「風話」などの連載随筆で有名になったが、特に東京日日新聞の連載「ブラリひょうたん」は、才気と機知とユーモアで終戦直後の混乱した世相の中で多くの人々に活力を与えた。昭和18年から神奈川県大磯町に住み昭和27年没した。
 本選集に採録した「馬鹿」(昭和7年『中央公論』)「人情馬鹿」(昭和8年『中央公論』)は、自分のうちにあるプチブル性の正体を追求しようとした作品。正直になりきれない自分に愛想をつかし、以来小説を断念。もっぱら雑文を書くようになる。

龍膽寺 雄
 本名橋詰雄。明治34年生まれ。千葉県佐倉の中学校で国文学教師を務めていた父の転勤に伴い、生後まもなく茨城県下妻町(現在は市)に移り住んだ。小学校時代から童話に親しみ絵画に熱中した。父の希望で慶応大学医学部予科に入学したが、父の死による解放感から小説を書き始め、『改造』10周年記念の懸賞小説に応募。本選集に収録した「放浪時代」の第1、2章が一等当選し、文壇に登場した。引き続き『改造』に第3、4、5章を書いて完成させ、翌年の「アパァトの女達と僕と」で文壇的地位を確立した。「放浪時代」は佐藤春夫から、「アパァトの女達と僕と」は谷崎潤一郎に高く評価された。モダニズム文学として、マルキシズム文学に対抗する文学の中心となった。『街のナンセンス』(昭和5年、新潮社)『十九の夏』(昭和5年、改造社)『燃えない蝋燭』(昭和6年、改造社)『化石の街』(昭和6年、新潮社)などが代表的作品。
 「放浪時代」は、日本文学史的にも大正初期の代表作であり、龍膽寺作品の中でも記念すべき作品。

若杉 鳥子
 本名板倉トリ。明治25年茨城県古河市生まれ。少女時代から横瀬夜雨に師事、『女子文壇』や『文章世界』に投稿した。単身上京し『中央新聞』記者となり、外務省に務めていた仏文学者の板倉勝忠と結婚。大正14年『文芸戦線』に「烈日」を発表しプロレタリア作家として認められた。昭和8年獄中死した小林多喜二の通夜に列席し、治安維持法違反の嫌疑で拘留された。昭和12年没。
 本選集に収めた「帰郷」「梁上の足」「櫻の寄贈者」「傷ついた笑」は、遺族により昭和13年に出版された遺稿集『帰郷』に収録された作品。「帰郷」は郷里の古河を背景にしている。「梁上の足」の初出は『解放』(大正15年)で、鳥子の作品としては最もプロレタリア的な作品。

上野 壮夫
 明治38年茨城県筑波郡作岡村(現つくば市)生まれ。下妻中学から早稲田高等学院ロシア文学科に学んだが、プロレタリア文学運動に熱中して中途退学。労農芸術家連盟の機関誌『文芸戦線』や前衛芸術家同盟の『前衛』、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の『戦旗』などに詩や小説を発表した。転向に追い込まれ、昭和11年第二次『現実』に「内部」を発表。昭和13年花王石鹸に入社して渡満、戦後は宣伝部長などを務めた。個人詩集『黒の時代』(昭和52年)がある。
 本選集に収録された小説「跳弾」は、昭和3年5月創刊のナップ機関誌『戦旗』に発表された。満州事変直前の反軍国主義的な作品として注目された。「内部」とともに代表作のひとつ。

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