| 『続・つくば報道』
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| 本書は、1998年11月に迎えた常陽新聞創刊50周年記念出版の一環。2000年6月刊行した「つくば報道」には、閣議決定(1963年)前から1999年までの報道記事の中から683本を精選・収録した。「続・つくば報道」は、64年1月の「赤城農相と岩上知事の新春対談」から2000年10月の「着工迫る沿線開発 つくばの常磐新線 第2部」まで、連載を中心に座談会・特集の計39編を年代順に収めた。「つくば報道」に収録したニュース記事などで前後関係を補いながら、39編の主題(骨子)、その背景について概略を紹介する。 〈1 赤城農相と岩上知事の新春対談〉 1964年1月1日付け。岩上二郎知事は、63年4月の統一地方選で事実上の信任投票により再選を果たした。赤城宗徳農相(筑波郡などを地盤とした当時の衆院3区選出衆院議員)は、63年12月に発足した第3次池田内閣で3度目の農林大臣に就任した。 63年は、9月10日の「研究学園都市の建設地は筑波地区とする」との閣議決定のほか、鹿島港の重要港湾指定(4月)、霞ケ浦地区を含む新東京国際空港候補地の航空審議会答申(12月)などが続いた。対談で、「貧困からの脱却」の夢を追った知事と「赤城農政」とまで言われた政界随一の農政通が「農工両全」「田園都市」「都市と農村の均衡」などについて大いに語っている。 〈2 研究学園都市の核心〉 1964年3月25日から31日まで連載した座談会。前年秋の閣議決定から半年余。地元地権者の間で、谷田部地区に「新官庁都市建設反対期成同盟」、茎崎地区に「研究学園都市建設反対期成同盟」が結成され、宅地や農地の全面買収を内容とするマスタープランに対する激しい抗議行動が繰り返された。 これに対応して、県議会は研究学園都市建設調査特別委員会を設置(63年12月)。県も筑波地区総合振興大綱で農業近代化や代替地対策、工業団地造成などを打ち出す(同)とともに、開発区域を山林中心に切り換える第3次案をまとめた。 座談会には、県議会特別委の中村喜四郎委員長(後の参院議員)や地元選出県議、県の児玉実孝企画開発部長らが出席した。 この後も曲折があり、日本住宅公団、県、関係6町村(筑波、大穂、豊里、谷田部、桜、茎崎)の三者による用地買収事務委託契約が調印されたのは66年8月、実際に用地買収が始まったのは同年12月と遅れた。 〈3 住民に還るか”学園都市”〉 1972年10月17日から28日までの連載。用地買収は次第に進展したが(67年12月67%、68年12月80%、69年12月92%)、今度は移転する研究・教育機関が確定しない時期を迎えた。 69年2月、自民党政調会に研究学園都市小委員会が設置され、関係省庁に対し移転への態度決定を迫り、70年5月に特別立法(筑波研究学園都市建設法)が成立した。研究機関の移転時期は「65年から着手、おおむね10年で完成」(64年12月の閣議口頭了解)、「68年度を初年度としておおむね10カ年」(69年6月の閣議決定)などとあいまいだったが、72年8月の閣議了解で、2年繰り上げ「75年度まで」と明示された。 筑波では、72年1月、花室公務員住宅で初めて、無機材質研究所の19世帯(53人)の入居が始まった。日本列島改造論が喧伝される中、7月には田中内閣が成立。73年度国の予算から投資額が急増した。 連載では、農家(地権者)への代替農地あっせんの停滞、右往左往する営農指導をはじめ、後回しになった生活・業務排水対策や都市施設の維持管理に伴う地元財政負担などに迫った。 〈4 筑波新都市開発は何をやるか 研究学園都市の現在と将来〉 1974年12月24日付けで掲載した座談会。筑波新都市開発は、73年9月に設立された官民共同出資の第三セクター。ゲストの児玉実孝同社専務は、筑波地区が富士、榛名、赤城山麓、那須高原とともに研究学園都市の候補地の一つになった62年当時の県総合開発事務局長で、その後、企画開発部長、出納長を歴任した。 一方の坂部正勝氏は、74年4月から78年6月まで、用地の取得・造成、基盤整備を担当する日本住宅公団研究・学園都市開発局の第2代局長。 74年春は、竹園東小が開校、筑波大の第1回入学式が行われ、次第に人口定着が進む中で筑波新都市の役割が関係者の間で注目されていた。 〈5 遠い隣人。学園都市で今、何が始まっているか〉 1976年7月22日から31日まで連載した。研究学園都市の基盤整備が完了し研究・教育機関の一斉移転が行われる(概成)時期は二転三転していたが、75年1月に国土庁長官が「5年遅らせる」と表明し、「79年度(80年春)」に移転・業務開始が集中することになった。懸案の地元財政負担については同年5月に「10年間にわたり年5億円」の特別措置が決まった。 連載では、「79年度概成」の見通し、人口定着とも絡む中心市街地(都心)計画、隣接する商都・土浦とのかかわり、モノレールなどの新交通システム、代替農地、周辺開発、広域行政などを扱っている。 〈6 筑波研究学園都市はどうなっているか〉 1976年10月21日付け掲載の座談会。住宅公団、県、筑波新都市開発、桜村、谷田部町などの関係者が出席した。基盤整備や施設建設の進捗状況、常磐自動車道などの交通体系、最寄り・買い回り品の商業サービス、周辺部の農業基盤整備、地元財政対策、工場誘致などについて話し合っている。 〈7 世界の頭脳がいまやっていること筑波新都市研究機関の新春〉 1977年1月6日から15日まで連載。「79年度概成」を前に、一部の研究機関・大学はすでに活動を開始していた。連載ではそのうち、筑波地方の風土病や埋蔵文化財などに取り組む筑波大の学内プロジェクトをはじめ、熱帯農業研究センター、国立公害研究所、高層気象台などで進行中の研究活動を中間報告した。 〈8 地元六カ町村の叫び 筑波研究学園都市 用地買収が始まって満10年〉 1977年2月1日から8日までの連載。「筑波研究学園都市」の区域は、法律的(筑波研究学園都市建設法)には6町村全域の2万8500ヘクタール。しかし、国の投資は一割に満たない2700ヘクタールの「研究学園地区」に集中した。地元6町村の指導者の間では、9割強を占める「周辺開発地区」の振興策が強く意識され始めた。 〈9 何かが始まっている…県南・西地域激動〉 1977年3月10日から4月4日までの連載。研究学園都市のほか、当時は竜ケ崎ニュータウンや南・北守谷団地などの大規模宅地開発が動き出していた。 75年春の統一地方選挙で竹内藤男知事が登場し、翌年9月、開発抑制と開発促進の中間をいく「開発調整型」(75年人口234万2000人、85年300万人)の県民福祉基本計画が策定された。それでも、県南地域の人口想定(75年59万7000人、85年92万8000人)から、常磐線の輸送力の限界が予測され、新交通体系をめぐる検討が活発化。今日のつくばエクスプレス(当時の第二常磐線=常磐新線)構想が県政の課題として浮上した。 〈10 モデルになるか「豊里東部」 筑波研究学園都市の周辺開発〉 1977年4月7日から11日までの短期連載。筑波研究コンソーシアムなどが立地する現在の東光台研究団地は、豊里町が推進した東部開発(土地区画整理事業)で生み出された。国連大学の候補地とされた時期もあったが、第三セクター筑波新都市開発による民間企業団地づくりに転換した。周辺開発第1号として地元関係者の注目を集めた。 〈11 はばたけ科学博〉 1978年9月7日から23日まで連載。科学技術庁が科学博(国際科学技術博覧会)の筑波開催を県に打診したのは78年7月。大阪万国博(70年)、沖縄海洋博(75年)に次ぐ国際博覧会。連載では、科学博構想の概要・経緯のほか、特に大阪万国博を地元サイドの目でケーススタディした。 〈12 やあ今日は 頭脳都市の顔〉 1978年9月28日から10月26日まで連載したインタビュー記事。80年春の集中移転・業務開始を控え、日本住宅公団研究・学園都市開発局長をはじめ、無機材質研究所長、筑波大学付属病院長など25人に、研究活動の重点、組織の沿革、概成に向けた対応、生活・都市基盤にかかわる課題などをたずねた。 〈13県南振興と科学博への期待将来像を考える〉 県と県南地域のおもな市町村企画担当部課長を囲んで開催した座談会で、1978年10月27日付け。筑波、竜ケ崎、守谷などで進行中の大規模開発に科学博覧会の誘致活動が加わった。地域振興の観点から17人が意見を述べ合った。 〈14 転機迎える筑波学園都市〉 1979九年3月15日から17日までの短期連載。概成後の課題、科学博と周辺開発、県による自立計画(案)の策定と6町村合併などをとらえた。 〈15 筑波研究学園都市第一期の総決算〉 1980年7月18日から81年3月3日にかけて、176回の長期連載の抄録。80年6月の県議会で、ミニ開発防止をねらいにした「建築物の敷地制限条例」と、学園都市としてのイメージアップを図る「文教地区条例」が成立した。 一方、概成により80年春、移転が計画された43の試験研究・教育機関のすべてが業務を開始した。しかし、人口は計画(研究学園地区10万人、周辺開発地区12万人)をはるかに下回り、研究学園地区2万7600人、周辺開発地区9万9700人の12万7千人強にとどまっていた。 事業当事者は都心サービスの成否や都市機能の不十分さを懸念、地元指導層は、巨大な装置産業が立地した鹿島との財政力格差(税収構造の違い)に目を向けるようになった。 連載では、閣議決定前後、マスタープランづくり、用地買収、都市計画決定と事業手法、特別立法(研究学園都市建設法)、地元財政負担特別措置など、事業の節目にかかわった当事者インタビューや、従来あまり一般の目に触れる機会の少なかった、▽科学技術会議の提言(62年7月)▽首都圏基本問題懇談会の中間報告(63年9月)▽日本学術会議の対政府申し入れ(68年11月)▽自民党研究学園都市小委員会の審議経過(議事録)(69年2月)▽中心地区計画調査報告(71年4月)▽国有財産中央審議会答申(72年3月)▽中心市街地整備報告(76年9月、第3次=79年6月)▽自立計画(案)(78年7月)などの資料を織り込みながら、研究学園都市事業の原点をたどり、地元・中央の動きを振り返った。 〈16 一人立ちの日 学園6カ町村の課題〉 1982年2月3日から17日まで連載した。77年2月の〈8 地元六町村の叫び〉の段階では「今春には(策定)」とされていた県の周辺地区整備計画が、4年余り遅れ、81年8月にまとまった。 この間、国際科学博は、国の財政難の下で、大幅な規模縮小を条件に閣議了解にこぎ着けた(79年11月)。会場についても筑波町との誘致合戦(用地取得競争)の末、観客輸送の有利性などから谷田部町に軍配があがった(80年12月)。81年に入ると、6町村指導者の間で、特別交付金の85年期限切れ問題などから合併不可避ムードが広がった。11月に科学博関連公共事業の総枠(4213億円)を決めた関係閣僚会議は「既定経費の前倒し」を注文した。 連載では、科学博を起爆力とする周辺開発への期待や、学園地区と周辺地区の格差是正、合併問題にもかかわる住民意識の微妙なズレなどを取材している。 〈17 筑波「P4」を直視する20人〉 1982年2月22日から4月23日にかけて連載したインタビュー記事。科学技術庁が谷田部町の住宅地に計画した理化学研究所のP4レベルを含む遺伝子組み換え研究施設建設が81年度予算に計上された。81年4月の国会審議で計画が明らかとなり、9月の谷田部町議会では地元住民の反対陳情が採択された。 82年に入ると、学園都市の研究者らが促進を陳情。議会は批判・推進の専門家を呼んで勉強会を開くなどして4月中旬ゴーサインを出した。連載では、産官学民の20人に賛成(積極)・反対(消極)の理由などをたずねた。 〈18 なぜ、今、合併なのか 学園都市6カ町村の課題〉 1982年8月10日から12日までの短期連載。県が設定した「85年の科学万博前」の町村合併というタイムリミットが迫っていた。83年春の統一地方選、都市計画見直しなどが理由とされた。連載では、広島大誘致を機に4町(当初は6町予定)が合併した東広島市の例も取り上げている。 〈19 障害者参加の道 科学万博まで2年〉 1983年3月21日から4月22日にかけての連載。「人間・居住・環境と科学技術」の科学博テーマが決まった81年は、「平等」「希望」「支援」を理念とする国際障害者年だった。県内各地の福祉のまちづくりの進展をとらえるとともに障害者の科学万博参加策を探った。連載後、常陽新聞社は車イス搬送車「ひばり号」を贈る運動に取り組んだ。 〈20 新交通システムの科技博導入で提言〉 1983年6月5日付け。筑波大有志らが中心となった新交通研究会の報告書要約の全文。科学万博会期中の観客は2000万人と想定され、自動車・バス、鉄道(常磐線)で半分ずつ受け持つ計画だった。提言で、新交通システムは、ピーク日の混雑緩和に役立ち、第二常磐線に備える域内交通と位置づけられた。 〈21 学園都市6カ町村「11月合併」論の現況〉 1983年6月16日から9月16日にかけての連載。県による町村合併の期限は「83年11月」に再設定された。豊里、大穂など北部の4町村議会が促進決議を行う一方、南部の谷田部町は「万博成功が最優先課題」とする時期尚早論、83年1月に町制に移行した茎崎は関心が低調だった。谷田部の動向が鍵を握る形になった。 連載では、綱引き劇の後ろにある南北格差をはじめ、都市施設の維持管理、地元要望の強い周辺開発と水源手当て問題、さらに特産品づくり、圃場整備、農地の規模拡大、家畜ふん尿処理など農村部の課題について取材した。 〈22 第二常磐線と地域開発に関する調査報告〉 1984年7月9日付け。県議会の「常磐新線・鹿島線・北関東横断道路調査特別委員会」に提出された「第二常磐線と地域開発に関する調査研究会」(委員長・新谷洋二東京大教授)の報告書概要。想定した第二常磐線4ルートのうち3ルートについて「採算性がとれ成立可能」「開発利益の総額は1000億円以上」と結論づけた。 2カ月後の84年9月、県は実現方策を探る「第二常磐線調査研究会」(委員長・新谷教授)を発足させ、開発利益の還元方式や事業主体、土地対策などの検討に入った。 〈23 都心に育つ核 学園都市の万博前200余日〉 1984年8月12日から23日までの連載。万博開催に合わせ都心部の整備が格段に進み、手つかずのアカマツ林は面目を一新した。83年にすでに完成していたつくばセンタービルに続き、85年にかけて学園都市ショッピングセンター「クレオ」、つくばエキスポセンター、筑波メディカルセンター、交通広場(つくば交通ターミナル)などが次々と誕生した。 〈24 「住環境」どこへ 紛争続く学園都市〉 1984年12月15日から21日までの短期連載。文教地区条例などが4年前に成立している筑波で、万博を目前にして中高層のホテルやマンション建築がラッシュ状態になり、周辺住民とのトラブルが頻発した。紛争の背景に迫った。 〈25 住民不在の町 混迷する谷田部〉 1986年7月24日から9月3日にかけて連載した。6カ月の会期中、計画通り2000万人の観客を集めた科学万博の閉幕から3カ月。谷田部町長選で3選されたばかりの沼尻民平町長が収賄の容疑で逮捕され(85年12月)、長期にわたる町長不在の事態に陥った。86年に入ると、議員宅散弾銃発砲事件、前助役宅灯油ばらまき事件などが続発した。記者が身を挺して事件の裏側に踏み込んだ迫真の取材。町長は、連載さなかの7月末退任し、出直し町長選が行われることになったが、立候補の動きを封じる暴力的圧力が続いた。 〈26 筑波研究学園都市合併問題に関する県資料〉 1987年7月30日付け。竹内知事が83年9月下旬「科学万博開催前の合併」を断念して以来4年ぶりに合併問題が再燃。87年6月、6町村正副議長との懇談で県の事務当局が「茎崎町への編入合併」を内容とする試案を示したのに続き、知事が6町村長に「年内合併」への協力を要請した。 常陽新聞社は6町村住民を対象に、120人のインタビュー(面接調査)と300人の電話アンケート調査を行い世論の把握に努めた。収録資料は、県が6町村などの関係者に配布したもの。 〈27 「つくば市」御中 住民たちは今…〉 1987年11月4日から27日にかけて連載したインタビュー記事。「茎崎町への編入合併」案が提示された後、合併パターン(合併の組み合わせ)や手順をめぐり6町村は二転三転した。6町村の対等合併、谷田部・大穂の部分合併、北部3町村の先行合併、2段階合併、多段階合併など…。結局、10月下旬に茎崎、筑波両町を除く4町村の対等合併(11月30日つくば市制施行)が決まった。筑波町も1カ月遅れの編入合併(88年1月1日)が決まった。 つくば市誕生の過程で、各町村で住民活動が活発化した。連載では、住民グループや各種団体代表などに「つくば市」への注文や意見をうかがった。 〈28 つくば合併の意味〉 1987年12月5日から8日までの短期連載。11月30日に発足したつくば市で早くも正副議長の選出や初代市長選挙をめぐり合従連衡が始まった。県の強力な指導が合併の背景にあっただけに鹿島3町など「つくばの次」にも関心が高まった。業務核都市を構成する隣接・土浦市も、水戸、日立に次いで人口第3位となったつくば市の登場を重大事と受け止めていた。市制施行直後の波紋を追った。 県内ではこの後、常澄村の水戸市編入(92年3月)、勝田・那珂湊両市によるひたちなか市(94年11月)、鹿島町への大野村編入による鹿嶋市(95年9月)、潮来町への牛堀町編入による潮来市(01年4月)誕生と市町村合併が続いている。 〈29 つくば市のにない手たち 市民の出番です〉 1988年2月1日から27日にかけて連載したインタビュー記事。年明け早々の初代市長選は4人で争われ、「地域格差の是正」などを主張した前・桜村長の倉田弘氏が当選した。連載では、以前から研究学園都市のまちづくりや文化関連の市民活動にかかわってきた人たちに「つくば観」などをたずねた。 〈30 わがまちの活性化対策−つくば市〉 1990年2月27日から3月11日まで連載した。国土庁は89年5月に策定した「新つくば計画」で、想定人口32万人の研究学園都市を中核(筑波都市圏)とし、土浦、牛久など隣接15市町村で100万人の自立都市圏をめざすビジョンを示した。 常磐新線や圏央道(首都圏中央連絡自動車道)を牽引力とするもので、筑波都市圏で、研究学園地区面積(2700ヘクタール)を上回る3000ヘクタールもの新規開発を盛り込んだ(居住地系1700ヘクタール、生産系800ヘクタール、商業・業務・研究開発系500ヘクタール)。新つくば計画検討会(座長・石原舜介東京理科大教授)の意見が参考とされた。 連載の時点で、民間大手デベロッパーによる住宅地やゴルフ場などの開発計画が目白押しの状況だった。連載直後の90年4月には、土浦、つくば、牛久を中心に県南西地域の43市町村をカバーする県の「グレーターつくば構想」が明らかにされた。構想は、グレーターつくば懇話会(座長・井上孝東大名誉教授)の報告がベースになった。 〈31 検証・つくば「P4」訴訟〉 1993年6月11日から15日までの短期連載。理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センターの「P4」実験施設使用差し止めなどを求め、地元住民らが88年4月、水戸地裁土浦支部に訴えた裁判の判決言い渡しが迫り、施設建設や住民が提訴に至る経過を振り返った。 判決は「実験施設は国の組み換えDNA実験指針をすべて充足し、安全が確保されている」として原告の請求を棄却した。住民側は「差し迫った危険性や具体的な被害などの立証は我々では極めて困難」と控訴を断念した。 〈32 つくば連続セミナー〉 筑波研究学園都市事業の建設開始から30周年を記念して、常陽新聞社が1993年5月から7月にかけて計3回開催した。「つくばの集積を、地域経済のため、いかに活用するか」をテーマに、官民を橋渡しする役割のコーディネーターをはじめ、先進的に取り組んだ地元経営者、シンクタンク、ベンチャー企業の代表が討論した。 〈33「常磐新線」ラストへつくば市からの報告〉 1994年5月18日から25日まで短期連載した。84年7月の「第二常磐線(常磐新線)と地域開発に関する調査研究会」報告で「成立可能」とされた鉄道の建設問題は、その後、85年7月の運輸政策審議会東京圏都市交通部会答申で、「ルートは東京−守谷−研究学園都市。うち東京−守谷間の開通目標年次は2000年度。守谷−研究学園都市間についても同年度までに着工」とされた。89年6月、沿線周辺の宅地開発と鉄道整備を一体的に進める特別立法(宅鉄法)が成立した。 つくば市内では、90年7月から8月にかけて沿線開発に関係する80集落で説明会が開かれたが、集落や農地を含んだ開発区域設定や「4割先買い・4割減歩」の開発手法をめぐり強い反発を招き、91年5月には市内地権者の半数近くが加盟する谷田部地域開発対策連合協議会(連合協)が結成された。県と連合協との正式交渉(連合協のいう「県をただす会」)の開始は、92年6月とズレ込んだ。バブル破綻による土地神話崩壊も見え隠れしていた。 ゼネコン汚職が県内にも飛び火し、93年7月に竹内知事が逮捕され、県政トップの座は橋本昌氏にバトンタッチされた。県と地権者の用地交渉は大詰め段階を迎えた。 〈34 電車がやってくる 21世紀への序章〉 1994年8月29日から9月18日にかけて連載。94年7月7日、県・市・地権者の三者合意(七夕合意)で用地問題が決着。「20世紀最後で最大のプロジェクト」「地域構造を塗り替える」といわれる鉄道建設と沿線開発の波紋、大正時代までさかのぼる「陸の孤島」解消への地元の悲願などを取材した。 〈35 合併10年 転換期のつくば〉 1997年11月20日から29日まで連載した。87年11月の市制施行後、倉田弘氏が初代市長を務めたあと、前助役の木村操氏が91年12月、倉田氏を破って初当選。沿線開発の三者合意を成立させ、95年12月に再選されたが、市長選の現金買収事件で失脚。96年11月の出直し選挙で3人目の市長に就任した藤沢順一氏のもとで節目の10周年を迎えた。 連載では、明治以来100年間、単独町(村)制を続けている茎崎町との合併問題、旧町村間の垣根解消や汚職事件続発にみられた金権体質、行政組織の肥大化、観光振興や地場産業育成、住宅・都市整備公団事業の収束に伴う未利用地処分、田園市街地構想や地価下落への対応など常磐新線(沿線開発)にかかわる課題などを取り上げた。 住都公団事業は97年度で収束。結局、研究学園都市建設に投じられた予算の総額は2兆3201億円にのぼった。内訳は、試験研究・教育機関の建設等1兆4601億円、公務員宿舎の建設748億円、住都公団が行う宅地造成事業等6655億円、関連公共公益施設の整備1137億円、筑波研究学園都市交付金601億円となった。ほかに、国際科学技術博覧会に向けて、関連公共事業費(一次・二次)4409億円が投下され、周辺開発の整備が進んだ。 98年4月には研究学園地区建設計画と周辺開発地区整備計画が全面改定された。国土庁と県が共同で設けた「今後の筑波研究学園都市の整備に関する調査委員会」(委員長・伊藤滋慶応大教授)の提言や、県が設けた「今後のつくばを考える懇話会」(座長・石川周茨城産業会議議長)の提言が反映された。 改定された計画では、科学技術中枢拠点都市、広域自立都市圏中核都市、エコ・ライフ・モデル都市が都市整備の基本目標となった。 〈36 つくば駅起工 常磐新線残る課題〉 2000年5月24日から27日までの短期連載。常磐新線の終点となるつくば駅で工事が始まり、全線の工事着手率は4割を超えた。市内の沿線開発で最大の地権者、葛城地区に立地する日本自動車研究所の移転問題の決着が近づいた。半面、開通時期の延期(当初の2000年から2005年に変更)などから事業費がふくらみ、沿線開発に伴う地元負担をめぐり県と市の交渉が長引いていた。 〈37 つくば市の環境施策を考える−研究者・企業・市民の参加で先進都市に〉 2000年6月29日付け。環境基本条例の施行(98年10月)、つくば国際水環境フォーラムの開催(00年2月)などを受け、「環境先進都市」をめざす藤沢市長と研究者、市民などが意見を交換した。 つくば市は翌月、01年度に始まる「新つくば市総合計画基本構想」の素案を市民に公開し意見を求めた。「つくば発−ゆとり伝心」を将来生活像とし、「環境都市つくば」「福祉都市つくば」に加えて「自律都市つくば」をめざす方向を示した。 〈38 着工迫る沿線開発 つくばの常磐新線 第1部〉 2000年9月6日から13日まで連載。沿線開発(土地区画整理事業)の着手に向けて事業計画案の地権者説明会が始まった。連載は、説明会で示された青写真についても、萱丸、島名・福田坪、上河原崎・中西、葛城の4地区ごとに詳しく紹介している。 〈39 着工迫る沿線開発 つくばの常磐新線 第2部〉 2000年10月17日から27日までの連載。移転をめぐる日本自動車研究所と県の合意、費用負担に関する県市交渉の決着、圏央道インター計画がからみ難航している手代木西部沿線開発の行方、94年7月の三者合意に盛り込まれたものの、県の行財政改革の影響で、火葬場建設だけが先行し県立公園が実現しないでいる玉取地区の問題を取り上げている。 |
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