| 『亀城への軌跡−土屋氏のルーツを探る』の構成 |
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もくじ 土屋氏の発祥 (一) 土屋氏の祖・三郎宗遠 3 (二) 本拠を甲斐国へ 6 (三) 土屋氏嫡流の系譜 8 (四) 清和源氏との関係 14 信玄・勝頼と土屋氏 (一) 金丸七兄弟 29 (二) 土屋右衛門尉昌次 31 (三) 昌次改姓の背景 39 (四) 信玄火葬地は土屋屋敷 42 (五) 武田勝頼の采配 46 (六) 長篠合戦への道 50 (七) 昌次、長篠に死す 58 武田氏滅亡と土屋氏 (一) 土屋惣蔵昌恒 69 (二) 斜陽の武田氏 74 (三) 落ちゆく勝頼主従 79 (四) 武田氏滅亡と昌恒の奮戦 91 (五) 「理慶尼記」の昌恒 98 江戸時代初期の土屋氏 (一) 落ちのびた母と子 105 (二) 運命的な家康との出会い 108 (三) 土屋氏中興の祖・忠直 114 (四) 常陸・土浦亀城へ 127 土屋氏異聞 大久保長安と土屋氏 135 相馬氏と土屋氏 142 新井白山と土屋氏 151 水戸徳川家と土屋氏 160 土屋家中と甲斐講 169 久留里円覚寺紀行―「亀城への軌跡」の結びに 181 ○ 土屋氏関連年表 188 ○ 土屋氏系譜 194 あとがき 196 著者「あとがき」より 今から三十年余も前のことになるが、大学正門近くのコーヒー店で、友人から土屋さんという女子学生を紹介された。友人は「世が世であればお姫様」と笑っていたが、土浦生まれではない私は(ああ亀城公園にあったお城の―)と漠然と思い当たる程度の認識しかなかった。大きな目が印象的であった土屋嬢に再びお会いすることはなかったが、その時が“土屋氏”との初めての出会いとなった。 大学卒業後、縁あって土浦市に奉職し、早いもので今年で二十七年目を迎えているが、この間、広報業務に十年余り従事した折、職務を通して土浦市の歴史を考察し、恩師永山正先生をはじめ郷土史研究に情熱を注いでおられる方々に接する機会を得たことは、いま振り返って誠に幸運であったと感じる。また、洋画家・郷土史家である本堂清先生が、当時、上司として在職され、その活躍ぶりに大いに啓発されたところでもあった。 さて、土屋氏関係の歴史に一段と興味を覚えたのは、城址整備の計画が進められたことによる。七、八年前、その検討委員会の末席をけがし、その後の実行委員会(お城づくりを進める会)メンバーにも加えていただいて、土浦商工会議所青年部の中枢にあった奥井聡太郎・堀越昭・中山昌男各氏等と何度も会議をもち、市建築課長であった久松俊雄現水道部長等からその規模について参考意見ももらいながら、西矢倉復元工事に対する一般への協賛願いの草案づくりなどに励んだことが思い出される。西ケ谷恭弘氏(当時立正大学講師、日本城郭史学会幹事長)を団長に迎えて行われた土浦城址発掘調査(昭和六十年秋)も、大きな刺激になった。同氏による商工会議所での調査報告会は盛況を極め、あの夜の熱気は今でも忘れられない。郷土の歴史に対する、市民の愛着と関心の高さを改めて実感したものである。 平成二年度春の定期人事異動で、土浦市・石岡市など十市町村で運営する広域の教育施設・一部事務組合の土浦石岡地方社会教育センターへ出向、奉職二十数年にして初めて学業の専門課程に関連する職場への配置となった。開設以来約二十年の間、生涯学習推進の先駆的役割を担ってきた本センターは、歴代所長・職員等の努力によってさすがに質の高い学習プログラムが確立されていたが、特に郷土理解の一環として行われてきた歴史見学に着目し、従来の日帰りコースに加えて一泊二日コースを新設。過去四年間に、山梨・長野・伊豆・山形・福島・岐阜・新潟・愛知など各地の歴史を探訪してきた。 今回の執筆にあたり、資料調査をすすめる過程で、九万五千石ながら土浦藩土屋氏は全国クラスの大名であることを確認できて成果があったと感じる。残念ながら、いま、ご子孫の方々は土浦を離れられ、関係資料等も少ないのが現状であるが、城下町としての歴史と伝統は決して失われることはなく、むしろ時代の推移とともにまちの資産としての価値はますます重みを増していくことだろう。もはやこの資産は、古きも新しきもここに住むすべての人々の誇りであり、共有の財産である。 平成六年二月十七日 |
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