『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』
  26人の横顔(本文より)
角田 和男氏(新治郡霞ケ浦町在住)
 <特攻の真の目的>中将夫人にあてた手紙で、「私が終戦まで特攻の直衛を務めて生き残ったのも、特攻の真の目的を世に出すために生かされたように思っています」と書いた。戦友の最期の状況を遺族に伝えることとともに、『修羅の翼』を著した大きな動機であった。
 *昭和9年6月、横須賀海軍航空隊入隊。第5期予科練習生。終戦時26歳9カ月。千葉県丸山町生まれ。




長沼 武治氏(稲敷郡阿見町在住)


 <罰直>戦後、海原会(予科練出身者の団体)などで戦時中の状況を語り合ってきたが、私が高雄(台湾)の飛練で受けた罰直(制裁)は、日本海軍でも一番理不尽でひどかったと思える。
 *昭和18年1月、岩国海軍航空隊入隊。
第14期丙種飛行予科練習生。終戦時23歳10カ月。稲敷郡阿見町生まれ。



松田(旧姓二川)政雄氏(水戸市在住)

 <過去のこと>県内に散らばった予科練出身者を探し当てても「過去のことは忘れたい」という人もずいぶんいた。それでも、復員名簿の170人を訪ね、趣旨を説明し、8人で茨城雄飛会を昭和38年に発足させ事務局長になった。
 *昭和14年11月、霞ケ浦海軍航空隊入隊。第12期乙種飛行予科練習生。終戦時20歳11カ月。ひたちなか市生まれ。



吉田 重次氏(稲敷郡阿見町在住)
 <遺品整理>(予科練記念館の開館準備で)同期生が特攻隊で出撃する間ぎわの遺書などを読んでいると、かわいそうで涙が止まらず、あの戦闘で死んだのかと当時の状況が目に浮かび、胸がつまって仕方がなかった。遺品類の整理は思うようには捗らなかった。
 *昭和15年12月、土浦海軍航空隊入隊。第15期飛行予科練習生。終戦時20歳。山形県上山市生まれ。



吉岡 六郎氏(土浦市在住)

 <将来の道>16歳の時、父が病死し、母の苦労を思って絵の道をあきらめた。当時、若者が将来を託す道は、軍隊に入るか、満蒙開拓か、ブラジル移民かだった。
 *昭和17年2月、土浦海軍航空隊入隊。第10期丙種飛行予科練習生。終戦時21歳6カ月。つくば市生まれ。



安岡 恒友氏(稲敷郡美浦村在住)
 <筑波おろし>初めて土浦駅に降り立った。暖かい台湾から来た身には、吹きすさぶ筑波おろしがことさら寒く感じられた。その晩「貴様ら、今夜はみっちり土浦海軍航空隊の精神を注入してやろう」と教員の声が飛んだ。
 *昭和17年2月、土浦海軍航空隊入隊。第10期丙種飛行予科練習生。終戦時21歳2カ月。佐賀県大町町生まれ。


千葉 昭二氏(稲敷郡阿見町在住)

 <母の言葉>戦争に負けておめおめ帰るなんて、親や故郷の人はさぞかし軽蔑するだろう。暗い気持ちを抱えたまま(疎開先の)郡山に向かった。「生きて帰って申し訳ない」とうなだれる私に、母は「バカ、生きて帰ってくるのが一番いいんだよ」と言った。救われる思いがした。
 *昭和18年5月、土浦海軍航空隊入隊。第20期乙種飛行予科練習生。終戦時18歳1カ月。稲敷郡阿見町生まれ。


小泉 正勝氏(土浦市在住)
 <復員命令>8月25日、突然「家に帰れ」という復員命令が出て、白米3升、缶詰5個、現金800円、汽車の無料パスが支給された。衣嚢袋に七つボタンの夏冬服、毛布、合羽、シャツ、股ひき、半袖、靴下、帽子、軍手、腹巻を入れ、吊床のキャンバスを衣嚢に巻いて紐でしばり鳥羽駅に向かった。
 *昭和18年5月、土浦海軍航空隊入隊。第20期飛行予科練習生。終戦時18歳3カ月。福島県泉崎村生まれ。


坂場 儀弘氏(東茨城郡茨城町在住)

 <ランプ>机の上にランプを置き(予科練)受験勉強に励んだ。居眠りして、おでこに小さなやけどを作ったこともいい思い出だ。試験問題はそれほど難しいとは感じなかった。ただ、迅速さと正確さが求められた。数人が受験したが合格は一人。村で初めての海軍航空兵だった。
 *昭和17年12月、土浦海軍航空隊入隊。第19期乙種飛行予科練習生。終戦時18歳9カ月。茨城町生まれ。


畠山 昭一郎氏(稲敷郡阿見町在住)

 <負けじ魂>入隊して真っ先に言われたのは、「スマートで目先が利いて、きちょうめん、負けじ魂これぞ船乗り」。柔軟性を持って行動しろ、ということだった。「常に出船の心」ともよく言われた。いつ、どんなときでも飛び出せるよう準備を怠るなということだ。
 *昭和18年4月、三重海軍航空隊入隊。第12期甲種飛行予科練習生。終戦時18歳7カ月。宮城県本吉町生まれ。


岡田 忠之助氏(土浦市在住)

 <勇者>特攻隊(の募集)には、◎(熱望)、○(希望)×(拒否)と3通りの選択肢があったが、当時の雰囲気では、×を回答できたのはよほどの勇者だった。だれが×を書いたか、公表されたわけではない。練習生同士、ウワサもできず、教員の態度から察するほかなかった。
 *昭和18年5月、土浦海軍航空隊入隊。第20期乙種飛行予科練習生。終戦時17歳4カ月。新治郡霞ケ浦町生まれ。


仲川(旧姓野口)武男氏(稲敷郡新利根町在住)
 <遺影>復員すると、予科練に行った長兄の遺影が目に飛び込んできた。いつか、兄と同じ部隊に配属されることを夢見て頑張ってきたのに、結局、私が入隊してからは一度も会うことができなかった。男と男として、兄弟として、同じ辛さを乗り越えてきた戦友として、話したいことが山ほどあった。
 *昭和18年5月、土浦海軍航空隊入隊。第20期飛行予科練習生。終戦時16歳6カ月。稲敷郡新利根町生まれ。


皆見 文男氏(土浦市在住)

 <サークル>(終戦後)「静友会」というサークルをつくった。これからの青年の生き方、民主主義、真・善・美などについて語り合った。ガリ版刷りの会報に詩や和歌、俳句も載せた。戦争で奪われた青春が戻った気がした。
 *昭和18年5月、土浦海軍航空隊入隊。第20期飛行予科練習生。終戦時17歳。土浦市生まれ。


鈴木 勇氏(石岡市在住)

 <M3>7月初旬、(小松基地の)神雷部隊に着任すると、近くの山中に「M3」と呼ばれる真新しい飛行機が数十機隠ぺいされていた。最前線の基地ではエンジンや計器の不調で帰投したことがしばしばだったので、「もったいないなぁと思った。M3は使われないままに終わった。
 *昭和18年6月、岩国海軍航空隊入隊。
特乙2期飛行予科練習生。終戦時19歳3カ月。新治郡八郷町生まれ。


米沢(旧姓外塚)麗子さん(稲敷郡阿見町在住)

 <仮に誘われても>土浦海軍航空隊で働き、夫も予科練であったため、一般の人より予科練を知っているかもしれない。しかし、丸太が粉々になるまで殴られる厳しい世界だったことを知るだけに、仮に誘われても「自分の子供には志願させられない」としみじみ思う。
 *昭和18年9月、土浦海軍航空隊予科練適性部(女子技工士)。終戦時20歳。稲敷郡阿見町生まれ。


鶴田 重郎氏(龍ケ崎市在住)

 <ドラマ>予科練映画といえば、記録ものだったが、「決戦の大空へ」(昭和18年6月封切)には青春のドラマがあった。主人公の気の弱い少年が鍛錬して成長する姿に自分自身を重ね合わせ、「予科練に入って自分を試したい」と血をわき立たせた。
 *昭和18年10月、土浦海軍航空隊入隊。第13期(前期)甲種飛行予科練習生。終戦時19歳2カ月。土浦市生まれ。


濱田 外夫氏(つくば市在住)

 <ささやかな主張>私は「戦傷病者手帳」と「身体障害者手帳」を持っている。義足を直すときは、どちらの手帳を使っても公費負担を受けられるが、あくまで戦傷者として「請求」するのが、国に対するささやかな自己主張である。
 *昭和18年10月、鹿児島海軍航空隊入隊。第13期(前期)飛行予科練習生。終戦時16歳8カ月。山口県宇部市生まれ。



大塚(旧姓大熊)嘉孝氏(新治郡新治村在住)

 <教育の呪縛>道を歩いていると、石を投げ付ける者もいた。そんな時、自分はだれのために闘ったのか、自問すればするほど分からなかった。戦後の一年、何をして過ごしたか、今もって定かではない。爆弾を持って死ぬという教育の呪縛から逃れるのは並み大抵でなかった。
 *昭和18年10月、土浦海軍航空隊入隊。第13期(前期)甲種飛行予科練習生。終戦時18歳11カ月。つくば市生まれ。


吉田 精吾氏(土浦市在住)

 <魅力>(小学校)5年のとき担任が海軍の出身だった。人柄がよく毅然としていた。軍人に対する憧れは、その先生の影響が大きかった。また、予科練に入れば食事も衣類も学費も無料。好きな勉強が続けられることが何よりも魅力だった。
 *昭和18年12月、三重海軍航空隊入隊。第21期乙種飛行予科練習生。終戦時17歳7カ月。土浦市生まれ。



田山 重秋氏(東茨城郡茨城町在住)

 <嫌気>(復員後の)「供出、供出」と追いたてられるような暮らしにだんだん嫌気がさしてしまった。自堕落な生活をするようになってから、母とは毎日のように言い争った。母が私のことを、どれほど情けなく感じていたか。今なら痛いほどよく分かる。
 *昭和18年12月、三重海軍航空隊入隊。第21期乙種飛行予科練習生。終戦時17歳2カ月。東茨城郡茨城町生まれ。


桜井 太氏(石岡市在住)

 <入隊日>前夜から親類の人たちが集まり、お別れの宴会が開かれた。当日は夜明け前、近所の鎮守様にお参りした。辺りは真っ暗だったが、「顔を見るのがつらいから出征兵士は夜が明けないうちに発つ」のが慣例だった。私は馬に乗り、村境まで送ってもらった。
 *昭和18年12月、三重海軍航空隊入隊。第21期乙種飛行予科練習生。終戦時17歳2カ月。新治郡八郷町生まれ。



戸張 礼記氏(稲敷郡阿見町在住)

 <タコツボ>下北半島の山林に幕舎(テント)を設営して寝起きし、本土決戦に備え、自分で掘った直径1メートルほどの「タコツボ」に潜み、上陸してくる敵戦車の下に爆雷を抱えて飛び込む訓練を続けていた。終戦は、そこで迎えた。
 *昭和19年6月、土浦海軍航空隊入隊。
第14期甲種飛行予科練習生。終戦時16歳9カ月。稲敷郡阿見町生まれ。



増田 三郎氏(土浦市在住)

 <兄弟代表>「これだけ男子がいるのに、一人として軍人としてご奉公できないのは申し訳ない。兄弟を代表して志願するように」。こう父から言われたのは、中学2年のときだった。男兄弟は3人だったが、肺結核の兄は入退院を繰り返していたし、弟はまだ就学前だった。
 *昭和19年6月、土浦海軍航空隊入隊。第14期甲種飛行予科練習生。終戦時15歳8カ月。群馬県吾妻町生まれ。



中山 盛三氏(下妻市在住)

 <アメリカの人たち>(終戦直後は)「兵隊はみんな殺される」「女の人は慰安婦にされる」といったデマも飛んだ。ただ、同じ分隊にアメリカのハイスクールを出た海軍少尉がいて「アメリカの人たちはそんな野蛮なことはしない。安心するように」という話があったせいか、割と冷静に次の指示を待つことができた。
 *昭和19年12月、三重海軍航空隊入隊。第24期乙種飛行予科練習生。終戦時17歳10カ月。下妻市生まれ。



熟田(旧姓河島)鶴江さん(稲敷郡阿見町在住)

 <2通の葉書>昭和19年5月、まあ君(第16期乙種予科練)から「南の空を元気で飛んでいます。貴女も体を大切に勉学に励んでください」という葉書が届いた。2カ月後、まあ君の母親から葉書が届いた。まあ君が戦死したという内容だった。2枚の葉書で私の初恋は終わった。
*昭和20年1月、霞ケ浦海軍航空隊会計部(学徒動員)、4月理事生。終戦時17歳3カ月。土浦市生まれ。


屋口 正一氏(石岡市在住)

 <マルテン>動員学徒の最後のころ、飛行機製造工場に回された。「マルテン」と呼ばれる飛行機を作っていたが、詳しいことは知らされなかった。ただ、厳重な警戒ぶりから普通の飛行機ではないことは想像がついた。
 *昭和20年2月、第一海軍航空廠入廠(学徒動員)。終戦時15歳7カ月。




お問い合わせ・ご注文は
常陽新聞新社 出版局
 TEL 029-821-1780(代)
 FAX 029-821-1689

-BACK- -HOME-