『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』
  戦時下の海軍航空隊周辺 
阿見地域で初の空襲被害
 阿見地域は、海軍関係の施設が集中していたために、軍関係施設を目的にした空襲にしばしば見舞われた。
 米軍による本土空襲は、1944(昭和19)年6月17日の九州爆撃から終戦の8月まで集中的に行われるようになり、45年3月10日には、死者10万人といわれる東京大空襲が行われ、以後、大都市のみならず、中小都市や軍事施設のある地域も、空襲に見舞われることが多くなった。
 阿見地域における空襲による具体的被害の最初は、大竹房雄『阿見史研究』第3号の報告によると、「44年11月24日午後2時ごろ。京浜地区に侵入したB29、1機は鹿島灘に抜けるため、阿見村の上空を高度8000bで雲を曳(ひ)きつつ通過した。このとき、君原村壮丁予備訓練が君原小学校の校庭で行われており、ちょうど校庭の真上を過ぎたころ、機銃掃射が行われ、このうち曳光射が1発、石川の民家に命中し、茅葺(ぶき)屋根に火が移り火災が発生した。しかし、発見が早かったため最小限度に被害をくいとめ難をのがれた」
 本県において、空襲によって火災が発生したのは、これが最初であるという。
(1983年3月『阿見町史』より)

ひん発した阿見空襲
 1944(昭和19)年11月以降、45年2月まで阿見の空は静けさを保ったが、45年3月9日、霞ケ浦沿岸の軍事施設を目標とする58発の焼夷(い)弾攻撃を受けた。それ以降、しばしば阿見地域は空襲を受け、4月には、P51艦載機 200機により機銃掃射を受け、第1海軍廠の第2整備工場4棟が全焼し、飛行機部と発動機部の見張り要員13人が爆風で死亡、女子学徒動員の3人も死亡した。
 これらの空襲によって、飛行場に隣接していた阿見国民学校は、危険を避けるために各部落の寺や公会堂を利用して、一時分散授業を行ったという。
 5月にも軍事施設を目標とした空襲が行われたが、被害はあまりひどくなかった。
 阿見地域の空襲でもっとも犠牲の大きかったのは、米国が45年6月8日に沖縄を完全に制圧した後の10日の空襲であった。この日午前8時、土浦海軍航空隊を主な目標とするB29、30機による 250`爆弾の投下が阿見・舟島地域に行われた。
 阿見町文化協議会機関紙13号で、丸山恒子「空襲の思い出」は、6月10日の空襲被害について、「土浦海軍航空隊即ち予科練は、7、8割の施設が灰じんとなり、 281人の尊き少年航空兵を失った。その他負傷者 145人(病院収容後26人死亡)」と記している。
(『阿見町史』より)

阿見町・舟島村を戦時災害指定町村に指定
 1945(昭和20)年6月10日は日曜日で、予科練には多くの父兄が遠方から面会に来ており、面会人13人が死亡。少年航空兵は、青宿台地の奥行き 300bほどの防空壕の入り口付近に爆弾が投下されて壕がつぶれ、中に避難していて犠牲になった。このほか、各部落の被害状況は次の通り。
 ▽青宿部落=死者13人、負傷者多数、焼失家屋集会所ほか15戸、付属家屋物置納屋約30棟▽立ノ越部落=直撃死亡10人、直撃家屋6棟、負傷者10数人、大破焼失家屋15棟(青宿、立ノ越の爆弾穴跡 200カ所以上)▽島津部落=死者16人、負傷者数15人、直撃全焼家屋4棟、家屋半壊60棟以上▽竹来部落=死者7人、負傷者10数人、全焼全壊家屋10数棟、爆弾穴跡96カ所▽廻戸部落=死者5人(うち、直撃弾により家族4人死亡)、全壊全焼家屋6棟、大破家屋多数、爆弾穴跡95カ所
 霞台の第2海軍集会所は爆弾で火の海になり灰じんに帰した。不思議にも、新町だけは爆撃を免れた。舟島小学校は、直撃爆弾を受けたが、日曜日のため学童不在、不幸中の幸いだった(丸山恒子「空襲の思い出」)。
 この空襲によって、阿見町と舟島村は、日立市、勝田町、水戸市、土浦市とともに戦時災害指定町村に指定された。
(『阿見町史』より)

終戦2週間前に阿見町が県に「家屋疎開申請書」
 1945(昭和20)年6月10日の空襲で、施設を破壊された予科練は各地の航空隊に分散することになった。犠牲になった予科練生 281人は、第14期を中心とする15期、16期(いずれも甲種)。乙種は44年3月三重空に移っており、阿見にはいなかった。
 その後、阿見町は7月10日に艦上機のロケット弾、焼夷弾投下による空襲を受けた。主要目標は中島飛行機製作所阿見支張所で、阿見国民学校、町役場付近民家にも弾丸が飛び、死者2人の犠牲を出した。
 たび重なる空襲で、かなりの空家がみられるようになり、町では防災上、家屋の疎開が必要と認め、45年8月1日付で、知事にあてて「当町数度ノ空襲ニヨリ家屋破壊等ノ為、左(下)記ノ如ク空屋ヲ生シ、今後ノ防空対策上、是カ間引疎開ハ絶対必要ト認メラレ候条、家屋疎開施行相成度、此段及申請候也」「一、阿見町総戸数(7月31日現在)1583戸、一、現在空屋数(同) 223戸」という内容の「家屋疎開申請書」を提出した。しかし、この「家屋疎開申請書」は実行に移されなかった。申請後2週間で終戦となったからである。
(『阿見町史』より)

朝日村(現阿見町)の部落常会にみる「銃後の守り」
 1937(昭和12)年の日中戦争から太平洋戦争へと戦線の拡大につれ、人々は銃後の守りのための生活を要請されることになった。銃後の守りは、部落常会で徹底が図られた。42年9月25日、朝日村の常会に提出された事項は−。
 (1)10月中の徹底事項として、@軍人援護を徹底的に強化しましょうA家庭の鉄と銅を供出しましょうB木炭の増産と消費節約に努めましょう−を掲げるとともに、(2)朝日村警防後援会設置の件(3)戦捷感謝軍人援護献金運動実施の件(4)青壮年国民登録に関する件(5)米穀早期供出に関する件が提出されている。
 これらの項目を一見しただけでも、いかに戦争協力のための生活になっていたかが分かるだろう。これ以降、常会では「『間に合わせ』の戦争生活を実践しよう」「衣類、家具の新調や新規購入は見合わせ、あるもので間に合わせましょう」「みんなで玄米食を実行しましょう」などが諮られ、日用品の配給の相談、米麦を中心とする農産物の供出割り当て、「航空機『爆発増産』特別貯蓄運動に関する件」「軍需鶏卵の供出に関する件」「銀の供出に関する件」などが次々と出され、そのような常会は終戦まで続いた。
(『阿見町史』より)

1945(昭和20)年6月10日の阿見町空襲と子供たち
 当時、舟島村舟島国民学校で教員をしていた吉田守の回顧談。
 「当時は警戒警報がなると出勤することになっていた。6月10日(日曜日)は校長、日直の先生、連絡や掃除のため登校していた高等科の生徒が学校にいたが、避難が早かったため死傷者を出さずに済んだ。戦災にあったり、空襲の犠牲になった子供もいたはずだが、校長や教頭にもその正確な情報をつかむことはできなかった。この日から学校では2カ所での分散授業に入った」
 「木原にも軍の送信所があり、下宿などを通じて土浦航空隊の士官や予科練生と関係のある家が多かったせいもあって、生徒たちの方が的確な判断をくだした。空襲警報が出ても生徒たちが登校しない。『なぜ来ない』と叱ると『今日は空襲があるからダメだ』という。確かにその日は空襲があるという状態だった。特に舟子送信所の方の子供はよく知っていた。子供たちの宣伝力は強く、生徒から教師が情報をつかむという実情だった」
 「終戦の詔勅放送にしても、生徒は割合に動揺を示さなかった。兵隊との接触を通じて、米軍がフィリピンまで進駐してきたころから『日本は勝てない』といっていた敏感な生徒たちがかなりいた」
(『阿見町史』より)

木原送信所
 美浦村木原の福祉センターの地にあった木原送信所は、正五角形の敷地で、正五角形の頂点に当たる所に高い鉄塔が立ち、通信線がはり巡らされ、遠くは南方まで無線通信をしていたようだ。開隊は1942(昭和17)年ごろと伝えられ、写真は残っていないが、コンクリート建物2棟のほか、鉄骨の小さい建物数棟、プールなどもあったように記憶している。
 空襲が激しくなると、舟子塚原下に地下壕を掘り、通信施設は避難して業務を続けており、木原地区はアメリカ軍の空襲を受けている。その機銃の跡が木原野口家にしばらく残っていた。
 45年6月10日には阿見地区がアメリカの爆撃機B29による空襲を受け、舟子地区の清明川近辺も多大の損害を受け、火災が発生したり死傷者が出ている。
 木原地区では、敵飛行機の来襲に備えて木原字横須賀に監視塔が立てられ、村内の有志が2名ないし1名ずつ、1日4交代で立哨に当たったと聞く。敵機が来ると村役場や軍に通報して、村民の安全を図ることになっていた。
(1995年11月『美浦村誌』より)

「進め一億火の玉だ」
 太平洋戦争が始まると(1941年12月)、情報局は「進め一億火の玉だ」というポスターを張り、宣伝カーも同じ題の音楽を流し、一億国民が心を一にしてアジアの解放と日本の自衛のために戦うという意義づけがなされた。
 しかし、日本の国力を知るものは米英を主軸とする世界の国々と戦うことは至難の業であると思っていた。当時の首相は「人間一度は清水の舞台から飛び降りることが必要」と国民に説いたが、そこにあるものは、考えることを止め、「死中に活を求める」という精神主義であった。
 国民は判断素材として、日本の国力や国際的地位について知る必要があったが、治安維持法をはじめ、41年3月公布の国防治安法・改正軍機保護法・改正刑法、41年12月の言論出版集会結社臨時取締法・戦時犯罪処罰特別法(後の戦時刑事特別法)などにより、国民の目と耳はふさがれ、さらに発言は箝(かん)口令同然とされ、国民は考えることを止めざるを得なかった。
 開戦の結果、緒戦の大戦果に彩られ、戦争遂行体制はますます強まった。政治体制も大政翼賛会一色で動員体制を計画、日本の経済体制そのものを崩壊させる危険をはらんでいた。
(『美浦村誌』より)

兵役人口と労働人口
 戦力の要素は、兵力と武器弾薬など戦争必要物資の生産力からなる。現役兵の徴集率を兵役適齢者全数からみると、1941(昭和16)年の51%から43年60%、45年90%と増えている。兵役人口の増加は、労働人口の減少・生産力の低下につながる。この労働人口の減少を女性と学徒の勤労動員が埋めた。44年8月の学校勤労令・女子勤労挺身勤労令で、常時の集中的な勤労動員が国家総動員法(38年3月公布)を基に行われた。
 壮丁人員表に基づき毎年4月から7月までに満20歳になった者の徴兵検査が行われたが、35年の結果は、▽甲種29.7%▽第1乙種21.5%▽第2乙種20.5%▽丙種31.8%▽丁種 6.3%▽戊種 0.1%だった(丁・戊は身長不足・精神障害・身体障害者)。
 日中戦争の拡大で、39年の兵役法改正により抽選制が廃止され、第3乙種が新設され、第1乙種も現役兵となり、第2乙種が第1補充兵、第3乙種が第2補充兵となった。41年の改正で丙種も召集対象となり、43年の改正で45歳まで召集の上限があげられ、徴兵適齢が19歳まで下げられ、翌年は20歳と19歳が徴兵検査を受けた。45年には徴兵検査前の満17、18歳も召集できるようになった。
(『美浦村誌』より)

国民の組織化
 太平洋戦争の開戦から3カ月、1942(昭和17)年2月、国防国家の建設を目的に大日本婦人会が結成された。皇国伝統の婦道に則り修身・斉家・奉公の実をあげるという国策協力機関。内務省・陸軍省・文部省の指導で創設された大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本連合婦人会の統合によって設立された。
 厚生省は、男子は25歳、女子は21歳までの結婚を奨励し、1夫婦5人の子供を育てること、6歳以上の子供を一人も死なせず10人育てると優良家族として表彰することにした。
 すでに41年1月、大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の合同により、大日本青少年団が結成された。10歳から25歳までを対象に、小学校から一人前の兵士となるまで、国家体制の思想を教え、体力を鍛える組織だった。活動の柱は、大陸現地訓練や海洋訓練、女子防災防空訓練、女子戦時生活訓練、戦時貯蓄、勤労奉仕などだった。
 少年は国民学校で忠君愛国、君国の大事には挙国一致して滅私奉公の誠を尽くすこと、少女は大日本青少年団で、20歳までに結婚すること、5人以上出産することなどを教えられた。
(『美浦村誌』より)

町内会・常会・隣組
 1938(昭和13)年の国家総動員法の公布後、町内会・常会・隣組が、官僚支配の末端機構として本格的に利用されるようになり、40年9月、内務省が出した部落会・町内会等整備要領により、全国どこでも強制的に設置された。
 万民翼賛のため隣保共助の精神に基づいて地方共同の任務を遂行するため活動することが目的。しかし、町内会・常会は小は十数戸から大は百数十戸とバラつきがあり、行政の末端組織としては不便だった。このため、その下に隣保班(隣組)が組織された。
 町内会・常会・隣組の役割はまず配給で、41年9月、県は米穀等配給通帳制を実施し、青果物、鮮魚介の配給の切符制が行われ、衣類・燃料・調味料なども配給制となり、町内会・常会はそれらを取り次ぐ末端行政組織の役目を果たすようになった。
 さらに供出の単位としても機能した。相互監視のもとに、各家にある鉄鋼・白金・プラチナ・ダイヤなどを強制的に供出させ、寺院では鐘や仏具までが供出させられた。
 また、防空の単位としても重要で、貯蓄の奨励、戦時国債の買い入れ奨励などの活動も行った。防諜(スパイ対策)の末端単位でもあった。
(『美浦村誌』より)

鹿島地区防空監視隊
 太平洋戦争の開戦は、大多数の青壮年を徴兵に駆り立て、統後の守りは女子勤労報国隊や大日本国防婦人会・女子挺身隊など女子の奉仕活動に期待されるようになった。
 鹿島地区防空監視隊本部は1938(昭和13)年に設置された。41年ごろまで本部の隊員は男子だったが、開戦の半年後、徴兵が厳しくなると、17歳から24歳までの未婚の女子が隊員になった。茨城県内には、監視隊本部が水戸・土浦・高萩・下館・太田・鹿島の6カ所に置かれた。
 鹿島地区防空監視隊本部は、現在の鹿嶋市宮中の交番裏の3階建て家屋に置かれ、軍民11カ所の監視哨と結ばれた。このうち、若松、波野、大同、上島、諏訪は軍の監視哨で、潮来、麻生、玉造、鉾田、津澄、平泉の民間の監視哨には青年学校3年生を主体にした男子9人が3人ずつ3交代で勤め、在郷軍人が監視長を務めた。
 各監視哨からの通報は、敵機発見・監視哨の番号・時刻・機数・機種・進行方向などで、これを受けた監視隊本部では、直通電話で即座に東部軍管区司令部(東京)と地区司令部(水戸)に通報。軍司令部は、報告により敵機の飛行コースを想定し、空襲警報発令や迎撃機発進などを指令した。
(1997年3月『鹿島町史』第5巻より)

鹿島地区防空監視隊と女子の役割
 監視隊の隊長には鹿島警察署長が任命され、隊長の下に第1−第4小隊が組まれ、第1小隊は鹿島、豊津地区、第2小隊は豊郷地区、第3小隊は波野地区、第4小隊は高松地区の、いずれも女子により編成された。
 各小隊には、副隊長(男)が選任され、副隊長の補佐役として事務主任(男)が付き、女子のまとめ役として各班に班長(女)が置かれた。隊長が警察署長兼任のため実際上の責任はすべて副隊長が負った。
 4小隊なので、当番は4日に1日の割で、女子たちは朝6時から翌朝6時まで24時間を8時間ずつ3交代、約10人1組で任務にあたった。
 監視哨の通報から司令部までの伝達は、3秒以内の敏速さを要求された。女子隊員の受信と送信の正確さ、素早さが被害の大小を左右すると言っても過言でないほど重要任務で、緊張に耐え切れずノイローゼに陥る女子もいた。戦争末期に入り本土決戦が叫ばれるようになると、九十九里浜や鹿島灘の広大な海岸線には敵上陸が予想され、迎撃部隊の増強や監視体制の強化で緊張は極限に達し、本部も地下壕に移されたが、任務は続行された。
(『鹿島町史』第5巻より)

北浦海軍航空隊と空襲
 1942(昭和17)年4月開隊した北浦海軍航空隊では、戦局の悪化に伴い、44年になると、大賀や釜谷の台地に防空壕が掘られて、兵士の避難所が造られ、そこには食糧や生活用品も収納された。
 45年になると、米軍機による日本本土への空襲が激しさを加え、北浦海軍航空隊も空襲を受けるようになった。45年2月16日には、鹿島沖から飛び立った米軍艦載機が県内各地の航空隊を爆撃した。神ノ池、鉾田、水戸、友部、百里、土浦、谷田部、鹿島などの各航空隊とともに北浦海軍航空隊も爆撃を受けたが、このときは爆撃機来襲の情報が入ったため、飛行機と多くの練習生は麻生町白浜や大同村掛崎(鹿嶋市)などへ分散移動していたため無事だった。
 しかし、航空隊の施設に対しては、ロケット砲や機銃掃射による攻撃を受け、ロケット弾が指揮所に命中し、機銃掃射により指揮所にいた射手と見張りの兵士が死傷した。大同村へ避難していた練習生たちは、空襲に対して抵抗できなかった。
 北浦海軍航空隊は、戦局の極端な悪化と物不足により、練習航空隊として機能を果たすことが不可能となり、45年5月5日付で解隊され、北浦航空基地となり終戦を迎えた。                           
(1996年3月『潮来町史』より)

鉾田陸軍飛行学校
 1940(昭和15)−41年ごろより鉾田町の上空は飛行機の爆音に明け暮れするようになった。西に百里原海軍航空隊(37年12月)、東に鉾田陸軍飛行学校(41年4月13日)が開設されたからである。
 鉾田陸軍飛行学校は新宮村 400町、上島村800町(爆撃場)にわたる地域で、設置の直接要因は、37年に陸軍の航空軍備が画期的に増強され、ノモンハン事件による操縦士の大量消もうを補充する必要もあって、従来、浜松飛行学校内に併立されていた重爆分科と軽爆分科が分離され、鉾田は独立した軽爆機専門の学校になったからだ。
 開校当時は、軍人100人、軍属300人、戦争末期は軍人800人、軍属200人、甲種学生30〜50人、乙種学生60〜100人、射撃学生100人を教育していた。
 43年1月福島県原ノ町に分教場が設置され、米軍がサイパン島に上陸した44年6月に戦闘機隊に改編されて鉾田教導飛行師団(45年7月まで)となり、その後、終戦まで第26飛行師団となった。
(1981年9月『茨城県史 市町村編V』より)

国民精神総動員運動と国家総動員法
 1937(昭和12)年7月、北京郊外での蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、長期戦の様相を示したため、わが国も、総力戦の必要から統制経済の波が徐々に国民生活の上におおいかかってきた。
 37年9月に始まった国民精神総動員運動は、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンとして国民を戦時体制に結集した。次いで38年4月には国家総動員法が制定され、この法律に基づいて経済統制が急速に進められ、6月には綿製品の製造販売が制限され、7月に物品販売価格取締規則が公布実施され、10月には石炭配給統制規則が施行された。
 この間、7月には同法による国民徴用令が公布され、軍需物資を生産拡充するため、必要な人員を得られない場合に、不急要とみられる職業の人は、国家の命令によって軍需産業に徴用され、戦争遂行のため軍需工場で働かされた。39年10月には、木炭・石油が配給制となり、併せて物価統制令の実施で一般物価、地代、家賃、賃銀俸給なども同年9月18日の水準にクギ付けになる半面、価格が統制されると、品物は店頭から姿を消し、闇価格が始まって生活は窮乏の一途をだとることになった。
(1975年11月『土浦市史』より)

近衛新体制と大政翼賛会
 1939(昭和14)年7月、ドイツのポーランド侵入から第2次世界大戦が勃発し、40年9月、日独伊3国同盟が結ばれ、わが国は日中戦争が解決しないまま、米英と対立することになった。そこで、国内体制を一層強化する必要に迫られ、いわゆる近衛新体制によって、各政党を解消させ、40年10月12日、大政翼賛会ができ、労働組合も解消して大日本産業報国会が結成され、全産業の国家統制が進められた。
 近衛新体制は、ドイツのナチスやイタリアのファシストにならった、ファッショ的な政治体制への再編運動と言ってよいもので、近衛文磨が第2次内閣を組織したとき(40年7月)、新体制準備会ができた。初め下から盛り上がる力を結集した国民組織というねらいだったが、次第に薄れ、官僚政府中心の御用結社になった。
 こうして10月12日には、すべての政党は解消し、翼賛議員連盟や翼賛政治会などが生まれた。この翼賛会は、やがて右翼団体を合わせ、42年には産業報国会、大日本婦人会、部落会、町内会、隣組なども指導下に入れ、防空演習や灯火管制、戦時公債や愛国貯金の割り当てから食糧の配給など日常生活の隅々まで支配力を及ぼした。
(『土浦市史』より)

学徒出陣、労徒勤労動員
 経済方面の統制だけでなく、学問や思想に対しても統制が行われ、超国家主義的思想の宣伝がますます強まり、一切の自由主義的思想の弾圧が行われた。1939(昭和14)年9月からは毎月1日を「興亜奉公日」と決め、この日は神社に参拝して前線将兵の武運長久を祈り、一汁一菜、日の丸弁当を食べ、一切の娯楽場や食堂が休業になった。「ぜいたくは敵だ」の標語も生まれた。
 38年5月から組織された隣組は、大政翼賛会の末端組織に組み入れられ、政府や軍の命令の伝達実施、出征兵士の見送り、遺族留守家族の救護、国防献金、勤労奉仕、空襲に備える防空演習、鉄・アルミ・銅製品の回収作業などに活躍した。
 38年7月の国民徴用令発動で、一般国民が軍需工場に動員されたが、戦局の重大化による兵力不足を補うため、43年理工系以外の大学生の徴兵猶予が停止となり、いわ学徒出陣が始まった(10月21日、神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会)。44年には学徒勤労動員が始まり(1月18日、緊急学徒勤労動員方策要綱決定)、国民学校高学年から中学校・高等女学校生徒も、工場や働き手のない農場、軍の作業に動員されることなった。
(『土浦市史』より)

翼賛会県支部結成と県防衛本部設置
 茨城県では、1940(昭和15)年12月12日に翼賛会県支部が結成された。水戸学伝統の尊皇精神を強調して、新体制確立のため、各市町村に支部を作ることを決議した。
 県支部長には知事、事務局長には赤城宗徳、最高機関の常務員には五・一五事件の橘孝三郎の女婿林正三、勤皇まことむすび運動の根本茂、水戸市長名越時中などの尊王思想家、経済界代表として宮崎慶一郎、福田重清といった顔ぶれで、さらに理事、顧問、参与も、県内有力者が顔をそろえ、挙県一致の体制を整えた。
 県支部の下には、県翼賛壮年団、農業報国連盟支部、県産業報国会、県労務報国会、大日本婦人会県支部がそれぞれ置かれた。真鍋出身の菊田禎一郎は翼賛会県支部理事兼庶務部長として、また同じく真鍋出身の佐野伊右衛門は理事兼商業報国会長として敏腕をふるった。
 41年12月8日、ハワイ湾奇襲で参戦すると、直ちに県防衛本部が設けられ、敵機の空襲に備え、翌42年6月には県防空連絡協議会が設置された(42年4月18日、米機の日本本土初空襲があった)。
(『土浦市史』より)

灯火管制下の市民生活
 太平洋戦争の開戦で、市民生活は厳重な灯火管制下に置かれた。警防団の防空監視、隣組の防火訓練は次第に厳しさを加え、女子の防空ずきん・もんぺ姿、男子ヘルメット・戦闘帽姿が普通になった。
 家ごとの防空壕の構築、学校や工場の隠退壕の構築も急速に進められ、しかも男子の不足により自然、銃後は女子が守ることになった。
 物資の欠乏はますます苦しさを加えた。主食の米について1940(昭和15)年5月、供出制が決まったのに続いて、41年2月、東京で米の配給制が実施され、次第に全国に及んだ。茨城県は農業県であったため、大都市に比べると食糧事情はよかった方だが、44年、全食品の総合配給制が行われるに及んで、県民の食生活も例外ではなくなった。
 米だけでは足りなくなり、麦、かぼちゃ・じゃがいも・さつまいも、あるいは、よもぎ・たんぽぽ・さんしょうのような山野草まで、いわゆる代用食として食膳に上るようになった。
 したがって、各家庭では、自給策として庭園をつぶして菜園にし、学校の運動場、工場の空地はすべて掘り起こされて、農園と化した。
(『土浦市史』より)

食料品、衣料品の窮乏
 生活用品の配給もますます厳しくなり、本土空襲の始まった1944(昭和19)年には、砂糖の配給も一般家庭用は廃止された。
 米の基準配給量も初め、大人1人2合3勺(0.4g)だったが、45年には2合1勺に減り、初め7分づきだったものが5分づき、さらに2分づきなり、米だけでなく、押し麦・大豆・とうもろこしなどの雑穀も混入され、その配給も滞りがちになった。
 肉・魚・野菜などの副食物も、食肉配給統制規則、青果配給統制規則などが制定され、やがて隣組を通じ配給制となった。
 生活必需物資の中で、最も早く窮屈になったのは衣料品であった。原料のほとんどを輸入に頼った繊維製品は、日中事変ごろから不足がちだったが、40年からメリヤス・タオル・靴下などが切符制となり、42年から全面的に衣料品切符制が実施され、年間1人につき都市居住者100点、郡部居住者80点と決まった。背広1着50点、袷着物48点、オーバー40点、手ぬぐい3点、靴下2点、ワイシャツ12点などだった。この点数も44年には30歳以上40点、30歳以下50点に減らされた。
 このため、食糧の買い出し、衣料と食糧の交換が日常の風景になり「たけのこ生活」の言葉も生まれた。
(『土浦市史』より)

学徒動員と土浦地方
 戦争が激しくなるにつれ、物資ばかりでなく労働力も不足してきた。働き盛りの男子の出征による労働力不足を補うため、1942(昭和17)年5月、企業整備令によって生じた余剰労働力を軍需工場に徴用することになった。
 県内では日立製作所、日立兵器、羽田精機、土浦市内では第一海軍航空廠、東京電機、中村鉄工所、中川ヒューム管、森島製作所などに配置された。
 しかし、これでも労働力の不足を補うことができず、43年6月「学徒戦時動員体制確立要項」が出て、国民学校高等科、中学校、女学校以上の生徒や学生を工場や農村に動員できることになった。低学年は農村に、高学年は軍需工場に動員され、空襲下の田畑や灯下管制下の工場で、ペンを鍬や旋盤に代えて働くことになった。
 学校で授業を受ける日はだんだんと少なくなり、最初は年間4カ月だった動員期間は、44年3月7日、「決戦非常措置要項」に基づく学徒動員実施要項で、中学生以上は1年間常時勤労、その他は非常時勤務につくことが決まって、勉学の時間はなくなった。土浦市内の学校も例外ではなかった。
(『土浦市史』より)

勤労動員・学校工場・女子挺身隊
 労徒動員で土浦国民学校高等科1、2年の女生徒は富士崎町にあった森島工場(鋳物製作)に、男生徒は第一海軍航空廠に動員された。
 土浦中学校では、5年生は東京電機と中村鉄工所に動員され、東京電機では軍船舶用モーター、中村鉄工所では機関銃の弾丸製作に従事した。4年生は第一海軍航空廠で飛行機の部品製作に従事した。3年生は初め中川ヒューム管、土浦造船所に動員されたが、後に2年生とともに航空廠に移った。
 土浦高等女学校でも、4年生と3年生は第一海軍航空廠に動員された。
 1944(昭和19)年になると、学校工場が設けられ、教室や講堂が工場と化し、学校内でも軍需品の生産が進められた。
 土浦高等女学校では講堂を工場として飛行機部品を製造し、2年生が学校工場で働いた。土浦中学校では講堂を工場化するため、機械の据え付けをしたところで終戦となった。
 男子労働力の不足を補うため、政府は43年1月の「生産増強勤労緊急対策要項」で、女子により代替できる業種、職種についてそれぞれ女子の使用員数の標準を定め、さらに9月には「女子勤労動員促進に関する件」を決定し、女子挺身隊が結成された。
 女子挺身隊はもともとは政府が法律で結成を命じたのでなく、国民の愛国心に訴えたものだが、戦局の推移とともに、女子動員を強化することになり、44年8月、女子挺身隊勤労令が公布され、女子挺身隊に法的根拠が示された。動員の対象は、12歳以上40歳以下の配偶者のいない女性で、第一海軍航空廠をはじめ、土浦市内の軍需工場で一般徴用工や動員学徒とともに、作業に当たり深夜作業も行った。
 低学年の生徒は勤労報国隊を編成して、出征兵士の家や遺家族の農作業に出動し、汗を流した。
(『土浦市史より』)

学童疎開・空襲
 1944(昭和19)年7月、本土空襲の激化に伴って、学童を戦禍から守るため、大都市から山村への学童の集団疎開が始まり、県内にも東京の小学生が多数疎開してきた。土浦市も初めは、むしろ集団疎開の受け入れ地で、川口町の土浦館には東京・淀橋区の戸田国民学校児童250人が疎開し、44年秋から45年春まで滞在していたが、付近に軍事施設をもつ土浦は安住の地ではなく、群馬県の太田に二次疎開したようだ。
 一方、土浦市にも次第に空襲の危機が迫ってきたので、45年7月27日付で、4年生以下の学童の縁故疎開を勧奨し、親戚や知人を頼って疎開させることになった。
 米軍機が初めて本土を空襲したのは42年4月18日。その後、サイパン島の陥落(44年7月7日)で、全国の主要都市が次々に襲われた。県内でも45年6月10日、日立市が艦砲射撃とB29の攻撃を受け、軍需工場化していた日立製作所は徹底的に破壊され、1200人以上の死者を出した。8月2日には、水戸市がB29延べ240機の空襲を受け、市人口の8割に当たる4万1000人が被災し、偕楽園も火に包まれ、好文亭は全焼、水戸城でただ一つ残っていた天守閣も焼け落ちた。
(『土浦市史』より)

土浦に対する初空襲
 霞ケ浦の軍事基地が近くにある土浦も危険が迫り、「戦時特別措置法」によって、重要施設を守るため、施設周辺の民間の取り壊しが始まった。非協力者は非国民扱いされた。まず土浦駅前と土浦郵便局周辺の民家が、民間の工作隊と勤労奉仕隊によって撤去された。
 土浦への初空襲は、1945(昭和20)年7月16日午後7時半ごろ。低空で1機が来襲し、土浦駅構内北側から川口東崎方面にかけて繋蹄(けいてい)爆弾を投下した。奇襲だったため市民はあわてて消灯するやら空襲警報を出すやら大騒ぎになったが、幸い後続機はなかった。
 しかし、警防団の第1分団長が川口の常磐線踏切付近に落ちた爆弾で死んだ。東崎から田町裏にかけて多数の爆弾が落とされた。市防護団本部では、霞ケ浦海軍航空隊に依頼して処理してもらったが、翌46年春になって、残っていた爆弾で、菜園づくりの川口町の女性1人が爆死した。
 相次ぐ空襲で、土浦市民は食糧や寝具などをリュックサックに詰めて、市外の山林に退避し、あるいは付近の農村の親戚知人を頼って疎開を余儀なくされた。
(『土浦市史』より)

義勇隊の結成
 米軍の本土上陸必至の情勢となり、県内でも各地に義勇隊の結成が進められた。土浦でも1945(昭和20)年5月31日、八坂神社前で土浦義勇隊が結成され、国土防衛、産業報国、敵陣斬り込みを誓い、一億総決死を覚悟した。だが8月15日の終戦の詔勅の喚発によってすべての戦は終わり、全市民は苦難の平和を迎えることになった。
 この間、終戦にかけて、霞ケ浦、土浦両航空隊、第一海軍航空廠など土浦周辺の軍事基地に対する敵機の攻撃は、次第に激しくなり、グラマン艦載機による空襲が繰り返され、迎え撃つわが戦闘機との間で空中戦も展開された。
 土浦航空隊には45年6月10日、30機のB29による爆撃で、教官11人、予科練の雛鷲たち281人が戦死、重軽傷119人に及んだ。負傷者のうち26人が霞ケ浦海軍病院に移されてから死亡した(大岩田町の法泉寺東側の戦没者の碑は、17回忌に建碑された)。
 8月2日、県都水戸が空襲を受けた際、「18日に土浦空襲」の予告ビラが敵機から撤布された。
 「茨城県終戦処理史」によると、土浦市の空襲被害は、水戸など三市に比べると少なくで済んだ。


    水戸など4市の空襲被害の状況
     死者  傷者   被災者  被災家屋
水戸   242人  1293人  41000人  11600戸
日立  1253    933   75000   14700
勝田   35    100    1000    100
土浦   75    81    −−    1262

 土浦市の数字は、終戦の年の繋蹄爆弾による被害、霞ケ浦航空隊の空襲火災時の消防車転覆による死者、土浦航空隊空襲時の土浦在住海軍軍人の被災者、艦載機による被弾家屋なども含むと思われる。
(『土浦市史』より)


戦時下の石岡地方
 1941(昭和16)年4月、「国民学校令」が公布され、石岡尋常小学校は石岡国民学校と改称。国家主義的色彩の強い教育方針が採用された。
 児童たちは、小国民と呼ばれ、学校行事・儀式・礼法・団体訓練に重点が置かれた。このころから、朝礼時の宮城礼拝や出征兵士の見送り、田植え、麦刈りなどの勤労奉仕が日常的に行われるようになった。「戦局の苛烈さと重大さを思えば、1、2年の学業返上が何であろう。サイパン在住の小国民を思え」と発言した校長もいた。
 石岡国民学校では、至誠奉公と親和勤労の校訓のもと、慰問袋寄贈や農繁期の奉仕作業を行った。
 44年8月15日には、東京墨田区向島から集団疎開児童395人を迎え、市内旅館(橋本旅館・稲吉屋・香取屋・亀下旅館・吉野)と国分寺・東耀寺に収容した。
 「ぜいたくは敵だ(戦時下だ、堅実な生活を…)」と耐乏生活を訴える啓発活動も39年から全国一斉に開始された。兵士へ送る慰問袋には、戦いに勝つという願いを込めた勝栗や、アメ・衣類・本・絵葉書などを入れて戦地へ届けられた。石岡の国防婦人会は防火・防空演習にも参加し積極的な姿勢で「銃後」を支えた。
(1994年6月『写真集 いしおか昭和の肖像』より)

中央滑空訓練所
 1941(昭和16)年6月、石岡市半ノ木に大日本飛行協会中央滑空訓練所が開設された。格納庫、宿舎、講堂、事務所などの施設とともに初級から高級までの訓練機を備え、教授陣には滑空界の第一人者を配した。42年の明治神宮国民体育錬成大会では、滑空演練会場として脚光を浴びた。町民は親しみを込めて「グライダー」と呼んでいた。
 また、協会では、航空思想の普及徹底と青少年の模型航空機製作、滑空訓練、航空文化の発展を期するため「大日本航空少年隊」を組織し、石岡国民学校にも石岡分隊が結成された。44年には大日本滑空工業専門学校(旧制)が設立され、空へのあこがれを抱く若者が全国から応募し、時代の花形になった。若松町に滑空機製作工場が建設され、部品から完成機までの一貫生産を行った。これにより石岡は滑空機の製造、訓練、教育と滑空界のメッカに発展した。
 敗色が濃くなり、予科練習生も滑空訓練に励み、45年には予備学生も来校して訓練を積んだ。この春以来、米軍の小型機による空襲が反復され、7月には機銃掃射で予備学生が戦死した。
 敗戦後、滑空工専は筑波工業専門学校に衣替えしたが、時代の変化で現在は法政大学総合運動場になっている。
(『写真集いしおか昭和の肖像』より)

*常陽新聞連載「等身大の予科練−インタビュー構成」第109回−第136回掲載時にメモとして併用したものです。単行本『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』には掲載されていません。

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