『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』
  等身大の予科練を読んで
巧まずして歩む世代の課題   金沢 正巳

 私は昭和21年1月の吹雪の晩に山形県酒田市近郊の村で生まれたという。物心ついたときは東京の下町浅草にいた。観音様の裏手で吉原に近い所である。昭和20年代の浅草には焼け跡が残っていたが、雨上がりの後、赤とんぼの大群を見たり、夕闇にコウモリが飛ぶ風情もあった。親から東京大空襲の話を聞いて育ったが、火の海や生き地獄の様子をこの目で見たわけではない。
 しかし、アメリカへの真珠湾攻撃や風船爆弾とは比べようのない、彼我の戦争被害の違い、戦争末期の沖縄戦や広島・長崎の原爆や東京大空襲などの悲惨さ・無残さを後世、歴史研究・歴史教育に係わって学んだ。大学では、歴史学のほか、社会心理学などにも興味を持ち、戦争と平和やナショナリズム等の問題を考えた。広島、長崎あるいはアウシュビッツで、人間はどこまで残酷になれるのか、なぜそれほど残酷なことをするのか、どうすれば平和な世の中を実現できるかについて考えた。その気持ちは今も変わらない。戦争も起きるし残酷な事件も止まらないから。
 だから、私には、大江健三郎氏のように「遅れてきた」という気もないし、「戦争を知らない子供たち…」と歌う気もない。戦争と平和の問題は今も重いテーマであると考える。
 常陽新聞社からこのたび『等身大の予科練』が出版された。今、なぜ予科練なのか。「戦争と平和」の問題をテーマの一つに青春時代から考えてきた私同様、常陽新聞社もこの本を通じて、20世紀を総括し、21世紀を展望しようとするかのように思われた。1894〜5年の日清戦争、1904〜5年の日露戦争、そして1945年8月15日のボツダム宣言受諾と、20世紀前半は戦争の世紀と言える。対して、いろいろな問題点は指摘されても、後半の半世紀は平和で、高度成長を謳歌し、豊かな生活を享受するにいたった。戦争の半世紀に、生死を紙一重で分け、生き延びた若者が、高度成長の日本経済の牽引車となり、平和と繁栄の半世紀を築いてきたわけだ。
 彼らの青春時代(ここでは予科練の時代)を振り返ることで、巧まずして次の時代に歩を進めている我々および我々に続く世代に、克服すべき課題を提示しているように考えられる。この書が単なる予科練卒業生の記録に終わっていないことは、二人の女性が登場していることでわかる。海軍軍楽隊出身の父を持つ米沢麗子さんは、家業(日用品店)と予科練適性部勤務を通じて、熟田鶴江さんは、伯母さんが経営する銭湯の手伝いと霞ケ浦海軍航空隊勤務を通じて、お二人とも親しく予科練生と接していた。一生懸命勉学にまた訓練に励む予科練生が受けた教官による暴力にとりわけ強い印象があったようだ。女性の目は、やはり暖かく優しい。
 予科練生一人ひとりのインタビューも丹念に行われている。角田和夫さん(5期)の話は、見出しだけ見ても「飯田大尉、ハワイ湾で突入自爆死」「ゼロ戦で出撃、恐怖の燃料タンク貫通」「戦後分かった勝利報道のウソ」など十分刺激的でドラマチックである。反面、国同士は戦っていても、相対する敵パイロットにどんな個人的な恨みがあるのかと思うと、とりわけ若者に憎しみの感情を煽り続けた軍の上官、政治家その他の社会的リーダーには重い責任を問いたくなる。
 戦局が不利となると特攻隊が編成され、飛行機製造が間に合わなくなると、水上特攻「震洋」(爆装モーターボート)や人間魚雷「回天」などが考案され、「飛行機を捨てても国に尽くすのは同じ」と上官に勧められ、予科練生が次々志願していった。卒業生の戦死率は平均8割(期別の最高は丙7期の9割3分)。まさしく人は消耗品である。とても勝てる状況ではないと思うし、なぜ戦い続けたか、戦後生まれの私には全く理解できない。
 開戦も終戦もしょせん成り行きだったのか。ずっと以前、予科練記念館「雄翔館」を訪れた時、未熟な少年が激しい訓練を受けながら、世の中を、まして国際関係など、よく分からぬまま死んでいったその無残さに、戦死した彼らの親兄弟、友達の無念の思いを重ね、私はひたすら涙したものだった。
 ところで、中山盛三さん(乙24期)が入隊した1944年12月頃になると、土木作業が主で、途中で予科練教育が中止となり、飛行機に乗ることなしに終戦を迎えたという。中山さんは90年、62歳で講習を受け、超軽量飛行機の操縦士の資格を取り、8年間空の旅を楽しんだ。平和な時代に空を飛ぶ楽しさは、他の人達も語っているが、特に乙20期の岡田忠之助さんの「乗っていると、当時、果たして操縦席から機銃を撃てただろうかという思いにかられる」という言葉が印象的である。そう、いつ死ぬか分からない、また人を殺さなければ自分が生きられない戦争よりは平和な世の中がいい。まして、今日、人類が滅亡しかねない核戦争の本当の恐ろしさなど知りたくもない。
 私は昨年4月、県南生涯学習センターの所長となり、初めて県南地域の勤務についた。この書には、視聴覚教育振興を通じて知り合った戸張礼記さんが登場している。温厚そのものの戸張先生にこんなに苦しい青春時代があり、奥様が戦争被災者であったことなど初めて知った。ご自身語っているように、予科練や戦争のことなど話したくない思い出だったのだろう。
 この本には出ていないが、乙20期のIさんという下館出身の知り合いがいる。今は農家の好々爺だが、予科練の歌(「若鷲の歌」)にはあと一曲あり、講堂に集めた生徒に選ばせる場面に立ち会ったという。今回、昔はたいへんだったんですねと電話連絡したら、何と長崎県の川棚で「震洋」に乗る訓練を受けていたという。川棚は今はハウステンボス近くの町だが、かつては特攻基地があり、死を賭けての訓練を受けていたわけだ。
 戦後生まれの人間には、話してくれなきゃ分からないという気持ちがあるが、当事者には語るに語れない思いもあるに違いない。当事者が黙して語らない場合、その意味をよくよく考えてみる必要がある。
 ここ数年、世紀末だ、新ミレニアムだ、新世紀の始まりだと騒ぎが続いた。しかし、景気はちっともよくならない。政治経済は相変わらず低迷し、教育も大きな転換期にかかり、変えなくてはならないと思うが、見通しは依然不透明である。
 工業化が進み、農業中心の農村共同体から都市に人口が集中するとともに価値観が一気に多様化した。その時代の流れの中で、予科練生の多くが遠慮がちに指摘しているが、自己中心的な人間が増え、社会がばらばらでまとまらなくなっている。国際関係も難しい。アメリカが国際政治に力ずくでも中心的役割を果たそうとしているが、反発も強い。日本を取り巻く朝鮮・中国との関係も、不審船・拉致事件・工場移転に伴う国内産業の空洞化と、きれいごとではすまされない状況で、本当に厳しくなってきた。
 この時にあたり、日本人は何をもって合意を形成し、転換期に合った社会を作り出していけばいいのか。国家と人間、戦争と平和の理念と現実のはざまで生きてきた、まさに「等身大の予科練生」の生き様がヒントの一つを提起してくれるのではないかと思う。


屋口 正一氏(石岡市在住)

 <マルテン>動員学徒の最後のころ、飛行機製造工場に回された。「マルテン」と呼ばれる飛行機を作っていたが、詳しいことは知らされなかった。ただ、厳重な警戒ぶりから普通の飛行機ではないことは想像がついた。
 *昭和20年2月、第一海軍航空廠入廠(学徒動員)。終戦時15歳7カ月。




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