| 『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』 航空特攻「神雷部隊」と人間爆弾「桜花」 |
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| 神雷部隊と新兵器「桜花」 神雷部隊は、1944(昭和19)年10月1日新たに編成された第721海軍航空部隊の別称で、戦局を挽回するために新兵器「桜花」を主戦兵器とした最初の航空特攻専門部隊。 新兵器「桜花」は大田正一少尉が考案したいわゆる人間爆弾で、全長6bほどの胴体に幅5bほどの小さな翼をつけた超小型の飛行機。脚や車輪など降着装置はない。胴体の頭部が .2dの大型爆弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されている。全重量約2d。 母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下される。その後は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。 (『海軍神雷部隊』戦友会編より) 神雷部隊の編成 神雷部隊は、「桜花」パイロットの桜花隊、「桜花」を運ぶ陸攻隊、これらを援護する戦闘機隊の3つが基本的な要素。桜花隊員の募集は最初、1944(昭和19)年8月中旬、全国航空隊からその目的と生還不可能の条件を明示して隠密裏に行われ、応募者の中から約 200名が10月から11月にかけて721航空隊に着任し、11月末には4個分隊編成となった。母機の陸攻には精鋭の飛行隊を充て、援護戦闘機として2個飛行隊が配置された。 これより前、9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決まり、10月1日、百里原(茨城)に桜花特攻専門部隊第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入された。11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられた。 (『海軍神雷部隊』戦友会編より) 桜花の訓練 「桜花」のように、重い機体に小さな翼をつけた飛行機は、高速でなければ失速する。しかし、高速では着陸できない。そこで訓練のため、実機から爆弾ロケットを外した軽い「桜花練習機」を作り、これで操縦感覚を体得することにした。しかし、着陸時は後のジェット機並みの高速になる。陸攻から投下後、エンジンなしで飛行場に着陸することは危険で至難の技と思われた。 そこで、まず事前訓練としてゼロ戦を使い、エンジンを「桜花練習機」の着陸最終パスなみの 110ノットで滑空、ねらった場所に着陸する練習を重ね投下訓練に備えた。これとは別に、ゼロ戦でフルパワーの高速緩降下突撃訓練を行い、「桜花」突進時の感覚を養った。 投下訓練は、投下後まず実機の最良滑空速度 260ノットで飛び、舵の効き具合いを試して実機の感触をつかむ。次に速度を激減し、最後はフラップを下ろし 110ノットでパスに乗る。目の高さ地上1bほどで水平飛行に移ると、間もなく橇(そり)が設地する。 「桜花」の投下訓練は1回だけで、これが修了すれば、あらゆる条件下で作戦可能な「練度A」とされた。 (『海軍神雷部隊』戦友会編より) 神雷部隊編成に至る経緯 <1944(昭和19)年5月1日> 1081航空隊分隊長大田正一少尉、隊司令菅原英雄中佐に「人間爆弾」の構想を明かす(大型爆弾に翼をつけ、投下されたあとは人間が操縦して敵艦に突入するという「必死・必中・必殺」をねらう新兵器)。 <44年5または6月> 大田少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航本の伊東裕満中佐と軍令部源田実中佐が協議して研究を進めることに。 <44年6月20日前後> 筑波航空隊で、戦闘機操縦教官7〜8名に対し、次の諮問があった。−どうにもならぬ戦局に対し、生還は絶対不可能であるが、成功すれば戦艦でも正規空母でも確実に撃沈できる「新兵器」の提案があった。上層部は「非人道的」なるが故に採用をためらい、まず搭乗員の意見を聴取することになった。諸官のうち、この「新兵器」搭乗希望者が2名以上あれば研究開発を進め、1名以下の場合は廃案にするという。諸官は「新兵器」搭乗を希望するか否か、と。(抄) <44年6月27日> 341航空隊(館山)司令岡村大佐、軍需省に航空兵器局総務局長大西瀧治郎中将を訪れ、体当たり戦法の重要性を強調し、「これに適する航空機」の開発を要望した。 <44年8月初旬> 大田少尉、改めて民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て作製した「人間爆弾の私案」を航空本部に提出。 <44年8月16日> 航空本部、大田私案に「○大部品」の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令。試作番号「MXY7」。 <44年8月中旬> 第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に「生還不可能の新兵器」の搭乗員希望者を募集。航空技術廠、「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始。 <44年8月18日> 軍令部第2部長黒島少将、軍令部会議で火薬ロケット推進の「○大兵器」を発表(「部品」が「兵器に変わる) <44年8月28日> 軍令部源田部員、○大の性能、用法、兵力について軍令部打ち合わせ会議で発言。 <44年8月下旬> 航空本部、○大を「桜花」と命名。 <44年9月15日> 桜花を基幹とする特殊専門部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341航空部隊司令)などを横浜航空隊付に発令。 (『海軍神雷部隊』戦友会編より) 神雷部隊と作家たち 山岡荘八・川端康成の両氏は1945(昭和20)年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。 山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、野里(鹿児島県鹿屋)における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。だが川端は特攻隊について一字も書いていない。 三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。 (『海軍神雷部隊』戦友会編より) *常陽新聞連載「等身大の予科練−インタビュー構成」第9回−第13回に「メモ」として併載したもので、単行本『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』には掲載していません。 | |
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