| 『霞ケ浦と文学』刊行記念座談会 「古典編」「近代散文編」「近代韻文編」の3巻で構成 創刊55周年記念「霞ケ浦の原風景を考える」キャンペーンの一環 |
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■出席者(順不同・敬称略) 田口 守 常磐大学教授 堀江 信男 茨城キリスト教大学教授 川村 ハツエ 歌人 小野 孝尚 茨城女子短期大学教授 (司会)岩波 嶺雄 常陽新聞出版担当 「霞ケ浦と文学」(全3巻)は、常陽新聞の創刊55周年記念事業として、ちょうど1年前に編纂委員の先生方のご協力で企画が始まりました。霞ケ浦をめぐって近年は環境保全が大きなテーマになっていますが、この数十年、人間中心のものの考え方があまりに強すぎた反省も出てきているかと思います。湖と人間が調和していた霞ケ浦の原点にまで立ち返って考えてみようと、昭和3,40年代の写真を中心に、新年早々に土浦駅前のウララビルにある県県南生涯学習センターで「霞ケ浦の原風景を考える」パネル展が開かれますが、「霞ケ浦と文学」の刊行も同じような趣旨で企画されました。今日は編纂に当たられた先生方に、担当していただいた各巻の特徴や編纂上の苦心などのほか、霞ケ浦の原風景ということについても話し合っていただければと思います。(司会者あいさつより) 第1巻・古典編 全作品の口語訳に挑戦/「歌枕」でCD−ROM検索/遊郭の雰囲気伝える「潮来婦誌」
【田口】古典の場合はジャンル別に考えました。「常陸風土記」は別格として、和歌、俳句、漢詩、謡曲、随筆(地誌・紀行)、それに江戸時代の戯作(げさく)です。このようにまずジャンルを立てて、それぞれどんなとらえ方ができるかを考えました。それに、いささか冒険になりますが、全作品に口語訳を加えるという方針を立てました。さらに補説を加えたところも少なくありません。 古典和歌については、「新編国歌大観」(角川書店)に14万首を超える和歌が収められ、CD−ROMも付いておりますので、これを武器に霞ケ浦界隈の歌に探りを入れました。古典和歌の場合は、「歌枕」で地域性を考えるほか手はないので、歌枕集としては形が整っている中世の「歌枕名寄」で、まず鹿島と霞ケ浦の歌枕を押さえ、関連する和歌をCD−ROMで検索する方法をとりました。 そうしますと、地方の歌人の歌がすっぽり抜けてしまい、それをどうするかが問題になるわけですが、江戸時代以前、あるいは江戸時代の霞ケ浦界隈の歌集を探し出す、時間的な余裕もありませんでしたので、「茨城県史」の中の「利根川図志」をはじめとする地誌に注目しました。今の市町村史よりも昔の地誌、例えば「潮来図誌」などは、文学に対して非常に丁寧な接し方をしていて、和歌や俳句がたくさん収められているので、そういうもので補いました。 俳諧については、松尾芭蕉の「鹿島詣」や小林一茶の「七番日記」など中央の俳人にも触れました。俳諧は北浦の帆津倉に大きな拠点があり、鉾田その他の遊俳たちも出てくるので、関連するものを拾いました。 漢詩については最近、江戸時代の刊行物の影印本が出ているので、それらを参考に「潮来」や「霞」「鹿島」と、めぼしい作品を拾いました。 謡曲というと、茨城県では「桜川」に絞られてしまった感じですが、鹿島関係も四曲あります。うちの1つは、かなり小さい作品なので省きましたが、室町期と思われる「常陸帯」(ひたちおび)、「鹿嶋」、それに徳川斉昭作の「要石」(かなめいし)の3つを取り上げました。 戯作では、式亭三馬の「潮来婦誌」を取り上げています。今まで触れたジャンルの作品は、どちらかと言うと奇麗事(きれいごと)の文学、風流の文学ですが、潮来は何といっても遊郭です。当時の遊郭の雰囲気、実態を伝える作品としては「潮来婦誌」以外にないので、作品のほとんど全部を取り上げました。霞ケ浦を背景に潮来近辺の話が非常に克明に描かれています。 ―「潮来婦誌」の現代語訳はこれまでなかったわけですね。 【田口】はい。それほどの価値がないのかもしれないけれども(笑)、潮来辺りの方言もかなり克明に出ています。 全体的に、郷土の研究家の業績に負う所多かったのは事実です。 第2巻・近代散文編 大衆小説「恋の浮島」/元予科練生の小説も収録/徳富蘆花、田山花袋らの「外の目」
【堀江】第2巻は明治以降、現代までの散文で構成されます。江戸時代から明治にかけて、霞ケ浦水郷は、とにかく江戸・東京から近く、まさに観光地でした。特に潮来は大きな遊郭があり、鹿島神宮への信仰もありました。潮来は前から交通の要衝で大きな船が入ったので、たくさんの人たちが訪れ、実にたくさんの紀行文が霞ケ浦・水郷については残されています。地元の人たちが霞ケ浦について書いた物より、旅行者が記録した物のほうが多いほどです。 私は、地域の住民、長くそこで生活している人がその地域についてよく知っているか、その土地についてよく表現できているかというと、そうではないのではないか。たまたま霞ケ浦を訪れ、ふだんの生活の基盤とは全く別のものに気づく、そうした旅行者の目、外からの目で本当に新鮮な発見が成されるということがあるのだと思います。そんなことで、第2巻に収める紀行文、随筆的な作品は、興味深く読んでいただけるのではないか。 近代・散文編は大きく分けると、内からの目、土地の人たちが書いた作品と、外からの目、旅行者的な目で霞ケ浦をとらえた作品の2つあります。前者は、例えば長塚節や犬田卯といった人たちの作品です。後者は、徳富蘆花や田山花袋などの作品です。 霞ケ浦を舞台にした小説もいくつか取り上げています。早い時期の作品、例えば江見水蔭の「恋の浮島」は、大衆小説的な作品で、当時、評判になった「不如帰」や「金色夜叉」など家庭小説の流れを汲んでいます。「恋の浮島」には、浮島の美しい女性と東京の若い華族との恋愛が描かれていますが、東京の人たちにとって、霞ケ浦は観光的にすごく身近な存在だったからだという気がします。 それから、まだ常磐線が開通してない時期は、佐原から船で来ることが多く、まさに潮来が中心です。その後、明治半ばに常磐線が開通してからは、圧倒的に土浦から入るルートが多くなる。土浦から船に乗って、船旅も味わえるということで湘南地方とは別な旅の楽しみがあったのだと思います。 大正時代に阿見に飛行場ができ、昭和に入ると予科練が置かれました。今回の散文編では、予科練生として、ここで実際に生活した石井勉という人が書いた小説「斜陽の果てに」の一部をとりました。ここで訓練を受けた人たちが実際に特攻隊として死んでいった事実があり、阿川弘之の小説「雲の墓標」が有名ですが、この作品は文庫本にも入っていて、読もうとすれば今でも読めるので、今回はとりませんでした。 「斜陽の果てに」で描かれる当時の若者たちの姿、その心情、それは今の時代でもいろいろまた考えさせられるものがあります。その辺も、霞ケ浦という地域の文学を考えるうえで、貴重で必要なものだという気がします。予科練体験者たちの日記や手紙もありますが、文学というジャンルからは外れるので小説にしました。近代史の一面に現れる霞ケ浦ということも、文学の面から考えていくことができるのではないかと思います。 −戦友会などがまとめた物もかなりありますね。 【堀江】そうですね。私の見た範囲では、文学というジャンルからは外れるという気がします。 第3巻・近代韻文編 短歌部門/筑波−水郷−鹿島・香取、斉藤茂吉らの周遊コース/優れた地元の歌人発掘/戦後に増えた庶民の歌集
【川村】私自身、短歌を作っていて友人・知人が多いのを生かそうと、茨城県歌人協会(会員数670〜680人)の会報を通して、自分や身近な人に霞ケ浦を詠んだ作品があるかどうか、問い合わせをしました。対象は昭和40年代までの作品、歌集に収められているか、歌碑が残っている作品としました。歌誌まで含めると膨大になり収拾がつかないからです。 今度の企画をありがたいと思った理由は、霞ケ浦を詠んだ作品できちんとした形で残っているのは有名歌人のものばかりで、地元では、長塚節や大野誠夫ぐらいです。そこで何とか、地元に住んでいる人が霞ケ浦を詠んだ作品を編纂しなければいけないと前から思っていたからです。今回はなるべく地元でよい歌を作っている人を発掘したいと思いました。 全体でだいたい100人と最初に見当をつけました。 「心の花」というのが一番古い結社で、佐佐木信綱の弟子が関係している。霞ケ浦近辺ではかつて「国民文学」という窪田空穂系の勢力がありました。「アララギ」には長塚節のほか、佐藤佐太郎も茨城で育った人で、割と「アララギ」系も多かった。でも、中央と交流があったのは、教員か財閥、地主、船主など富裕階級で、歌集も残っています。 庶民の詠んだ歌集が多くなったのは戦後のことで、やはりマッカーサーのお陰だと思います。年代順で一番古いのは、佐佐木信綱の弟子で石岡の人ですが、かなり裕福な農家です。「山と湖」は1947年の創刊で、今回創刊号を探してもらいましたが、霞ケ浦の作品はあまり入っていない。 先ほど堀江さんがおっしゃったように、外の人が霞ケ浦を詠んだ作品にも意味があると思います。斉藤茂吉など多くの歌人が筑波山から土浦に出て船で水郷に渡って鹿島をお参りして、水郷を経て香取に出て帰途についている。そうしたコースが一番多かったと思います。 先日、網谷(厚子)さんが出した「鑑賞茨城の文学−短歌編」(筑波書林)には、当然入れるべき人、例えば古くからの添谷武男さんや桐原美代治さんが抜けていますが、これまでになかった画期的な仕事だと思います。今回の常陽新聞の企画は、地元の歌人にとってはすごくありがたい。大勢の歌人が本やコピーを送ってくれたのは喜びの現れだと思います。これまで木村修康さんが随分(顕彰の仕事を)やっていました(「水郷の歌人たち」「茨城歌人列伝−明治・大正・昭和の歌人たち」)が、中央ではあまり評価されていない。中央で知られていない茨城の歌人たちを顕彰しても、中央から認められないことも問題かなとも思いました。私が今、顕彰しようとしている大野誠夫はすばらしい歌人なので随分反響がありますが、もう少し地元のすぐれた歌人たちを押し出して行かなければと思います。 田崎秀さんが著した「茨城歌人選集」にも良い歌がたくさんあります。でも、「アララギ」の神戸節も、若いころ一生懸命詠んでいたらしいのですが、歌集を出したのは、晩年だったので、中央ではほとんど認められていません。小室秀一や水飼瑛もそうです。そのように、とても良い歌を作っていながら、歌集を出さなければ認められないというところもあります。「茨城歌人」や「山と湖」などの雑誌は、中央の結社に所属していて、なおかつ茨城県に住んでいるのでお付き合いで一緒にやりましょうという雑誌であって、中央で認められ1冊の歌集を出す形にならないとほとんど浮き上がってこない。 今回、茨城県に住んでいたり、茨城県出身で中央で活躍する若い人たち、例えば坂井修一や米川千嘉子、田中拓也を入れたのも、本を手に取ってもらう作戦の意味もありました(笑い)が、喜んで参加してくれました。やはり、もう少し茨城の歌人をPRしなければいけないのではないかと思っています。 第3巻・近代韻文編 俳句、詩部門/雨情、夜雨の存在感/方言の民謡詩「ジャランボ」/うらやましい「水と空の青さ」
−最後になりましたが、第3巻の俳句と詩を担当された小野先生、お願いします。 【小野】まず俳句ですが、収録作品の判断に苦労しました。最初は九人ぐらいしかいなかったのですが、最終的に26人になりました。現在、活躍されている俳人、いわゆる現代俳人については結社の主宰者、新聞の選者にとどめました。資料としては県立図書館の郷土資料室が大変よく揃っていて、お世話になりました。あとは句碑です。 霞ケ浦にかかわる作品を分けてみると、地域俳人という言葉があるかどうか分かりませんが、生活者、地域の人としての作句がまずあります。もう一つは旅行者として、吟行吟と表現していいのか分かりませんが、そういう作品があげられます。 地元の生活感、地域に密着した作句をした人には、阿見町の渡辺香墨、土浦の根崎梧楼らがいます。根崎さんの「公魚の禁漁解けて二月尽」など、生活感があっていいなと思いました。最も心打たれたのは、川村先生からの勧めでいろいろ調べた乾修平の「葦枯れの村吉で酒凶で酒」。漁民たちの生活感が出ているなと思いました。それから「水と空の青さに馴れてよしきりよ」。今では考えられないような時代が霞ケ浦にはあったんだということで、うらやましい感じがしました。乾さんは土浦中学を出て県庁に入り霞ケ浦周辺を歩いた方で、漁民の生活をよく知っている。乾さんをもっと調べてみたい。現代俳人の今瀬剛一は、鉾田一高で教員をされた方で、「芦を刈る一歩は穂■(如の下に糸)まみれかな」があげられます。 吟行吟、旅行者としての作品には利根川が多く、利根川から先(北)は「寒い」「遅い」といったイメージでとらえているようです。旅行者としては、やはり潮来が多いですね。県内の方も、旅行者の目で作っています。 次に、霞ケ浦と詩ですが、東京から近く文化の流入があったこと、舟運・港を中心にした恵まれた環境、自然の豊かさのほか、茨城には先達詩人の野口雨情と横瀬夜雨の存在が大きく、後進をよく指導したので、茨城には詩人が多いのではないかと思います。常陽新聞の「茨城近代文学選集・詩歌編(第5巻)」でも30人ぐらい扱っていますが、多くの人が雨情や夜雨の指導や影響を受けています。今回、改めて雨情や夜雨の指導力はすごいなと思いました。 水郷縁の詩人としては、鹿嶋市大舟津生まれの本澤浩二郎、霞ケ浦町川尻出身の飯島匡孝、潮来市延方生まれの関沢潤一郎の3人がげられます。関沢は戦前、叙情歌謡の「高原の旅愁」がヒットしたらしい。飯島匡孝と関沢潤一郎にはよい作品があり、これからも調べてみたい。 それから、小川町生まれの清水橘村、大宮生まれの寺門仁の作品には、郷愁、ふるさとを思う気持ちが現れていて、寺門仁の「浦浪遊女」は、潮来と霞ケ浦を舞台にした作品ですごくよいなと思いました。桜川村生まれの大鳥居金一郎、龍ケ崎の森田麦の秋などの作品も入れてあります。 飯島匡孝の「水村初夏」や「水ぐるま」「よしきりすずめ」「土浦川口」などは、特に水郷の情景が現れている作品です。「精霊舟」は盆舟の風習を作品化している。盆舟は北茨城のほうでも有名ですが、水郷の一つの風物詩ではないかと思います。関沢潤一郎の「ジャランボの花」「菩提心」「真菰ばかりか」「潮来背山の」といった作品にも水郷の情景が現れています。「ジャランボ」という民謡詩は、農閑期の納屋での筵(むしろ)織りを方言を使って作品化しているんです。そういう「ジャランボ」という花を含めて、水郷の風物詩と言えるのではないかと思いました。常陽新聞の茨城近代文学選集(全5巻)は、今回の下調査でバイブルとなり、すごく助かりました。 −ジャランボは、潮来地方の方言で、水草のアサザのことですが、詩にうたわれていることは初めて聞きました。あります。 【小野】ジャランボは、特定の水草を指すのではなく、総称ですね。 うがいをする、顔を洗う/夜明けの霞ケ浦を描写/徳富蘆花の「自然と人生」 【堀江】乾さんの「水と空の青さに馴れてよしきりよ」は戦後の霞ケ浦ですけれども、霞ケ浦が本当にきれいだった。ここで漁をして生活していた人たちにとっては、まさに生活の場であり、本当にその面で地元の人たちが守ってきたということもあると思います。 その水のきれいさについては、徳富蘆花のベストセラー「自然と人生」の中に霞ケ浦の夜明けを書いている短い文章があります。 まさに小見川のほうがまだ夜だけれども、こちらが明けた。その明けてくる情景を描いて、そして最後に、そこの村民が川へ下りて来て、そこの水でうがいをして顔を洗う。そして、その後「それから遥かに筑波のほうへ向いて手を合わせて拝んでいた。ああ実に良い拝殿と自分は思った」という文章で結ばれるんです。 霞ケ浦の水でうがいをする、顔を洗うというのは、明治40年代の江見水蔭の文章にも出てきます。浮島のとても美しい女性が霞ケ浦の水で米をといでいる。別の人の作品では、利根川の水を日常的に飲んでいるという話も出てきます。まさに、霞ケ浦の水も利根川の水も飲めた。今は渓流のきれいな水でも飲むのを躊躇(ちゅうちょ)する人も多いと言いますが、とにかく縦横に舟が行き来しながら、すごくきれいな湖だった。つい最近まで、そうだったんですよね。 千鳥の集団、13世紀歌人を圧倒/洪水の悩みを詠んだ浮島の歌人
【小野】古典のほうでは「霞の浦」と言っていますが、歌枕というのは行かないで詠うというのが特色です。行くと複雑な物を見てしまうから、かえって駄目なんです。(笑い)霞というとパターンが決まっている。その中で1200年代、藤原光利という歌人が鎌倉から隅田川を渡って、霞ケ浦の周辺をずっと歩いて鹿島神宮を目指した。その霞ケ浦というのはどこか、いろいろな説がありますが、千鳥が飛び交ったというんです。それは空が黒くなってシルエットになって、ちょうど太陽の光を受けて雪が降ってくるような状態になったというんです。それぐらい歌人たちは、霞ケ浦の自然に圧倒的な魅力を感じていた。 【堀江】霞ケ浦の豊かさというのは、まさに常陸風土記に描かれているわけでしょう。ここで捕れる魚などのことも書いてあります。 【川村】浮島の歌人の作品を見ると、何と洪水に悩んだかということを感じます。 ―歌にも出てきますか。 【川村】たくさん出てきます。浮島、桜川村辺りは歌人が多かったんです。今年の稲作は水が被ったとありますので、だから護岸の堤防を作ったりしたのも意味があるんだなと思いました。 【堀江】それは、そうですよね。洪水を防ぐための大規模な利根川の改修からしてそうですが、半面水が汚れる原因にもなる。その調和は本当に難しい。 −10年ぐらい前、稲敷郡の村長が村の先人の足取りを振り返って「禍福はあざなえる縄の如し」と語っていました。土浦でも明治時代の40数年に9回の洪水が記録されています。田畑の被害はもっと頻繁にあった。3年に1回米がとれればいいといわれるほど増水被害は多かったようです。 【川村】せっかくの稲作が今年は駄目になってしまった。苦しい、出稼ぎに行かなきゃいけないという歌もあると、なるべくしてなった部分もあるんですよね。堤防を造ったり、アサザが減ったりするのも、実際きれいだけで生活は済まないところもあったのではないか。片方だけ強調し過ぎてもいけない。やはり浮島などで生活していた農民の苦しさというのもあったわけです。 【小野】そういうことを伝えるためにも、今度の企画というのはプラスになります。 ―なかなか難しいかもしれないけれども、歴史的な経緯にある程度目配りしながら蓄積のうえに、次の世代が進んでくれればという思いもあります。 観光資源と史実の間/芭蕉の文章に「長考」 【田口】故郷にかかわる作家の活動や文学作品を観光的な資源として活用する傾向が出ていますが、少しこれは問題だぞと異論のあるものの扱いには神経を使います。その一つは芭蕉の「鹿島詣」の最後のほうの「帰路自準に宿す」という文章です。それが潮来の本間道悦の家だということになっていますが、自準は行徳の小西似春のことですね。本間道悦が自準という俳号を使ったことはないし、小西似春の場合は仮名では「ししゅん」と書く。これを潮来ではないと言うのも、ちょっと辛いのですが(笑い)、最終的には、本文にある「帰路自準に宿す」というのは、行徳の小西自準の所だと認めざるを得ない。ただ、芭蕉が鹿島に来た時に「何々泊す」という形で本文には出てこないけれども、やはり潮来の道悦の所に泊まっている可能性は強いことも述べておきました。 −各地で地域の文学的資産を再評価しようという動きがある中で、史実的なものをいかに踏まえるかが、これからの課題の一つですね。 今回の出版を先生方のほか中学生、高校生にもできるだけ読んでもらって、霞ケ浦の文化的資源として共有できたらというねらいがありました。 【川村】とにかく本の値段を安くしないと駄目ですね。(笑い) 【田口】第1巻の特色は、全部に口語訳を付けた。(笑い)謡曲3曲も今まで口語訳は付いていませんから、割とこれも手間がかかったんです。付けても付けなくても良かったと思いながら全部付けたのは発句(俳句)です。いろいろな解釈があってもいいなという気持ちで、ゆとりを持って付けました。 連句の口語訳もやってみました。これも誰も手がけていなかった。やってみて、なぜか途中から訳が分からなくなったので、よく見たら、最初の半分は江戸の俳人が来てこちらのスポンサーを入れて4人ぐらいでやっている。途中で江戸の連中が帰ってしまい、地元の人だけになったら通じない。彼らだけに分かる土地の細かい情報がたくさんあって、それでやっているから、今では訳が分からなくなるのです。その手前で「以下省略」としようかと思ったのですが、ここまで訳したのだからと、何とか最後までやった。(笑) ―川村さんと小野先生の担当は近代ですから、現代語訳の苦労はありませんでしたね。 【川村】私は短歌の口語訳は反対です。だって解釈の方向を一つにしてしまう。いかに短い言葉によって広く解釈できるかというのが大事で、それを口語訳すると方向を一定にしてしまうので、難しいところですよね。歌人が英訳を嫌うのは、それなんです。いろいろな解釈があっていいのに、一つの解釈に限定されてしまうのを嫌うわけです。 【堀江】俳句や短歌、詩は、注だけという感じのほうがむしろいいんですよね。 【小野】一般的に俳句は、分からない漢字を使う、我々と別な世界だというふうに思ってしまう。 ふりがなならぬ、「ふり漢字」 ―ジャンルにもよるのでしょうが、古典を現代にいかにつなぐか、議論があるでしょうね。初めに、角川書店のCD−ROMを活用したお話がありましたが、それは俳句ですか。 【田口】和歌です。 ―今回、CD−ROMを付けたいのですが、検索にかからないような旧字体について角川の扱いはどうなっていましたか。 【田口】検索本文は全部ひらがなになっていますからその心配はありません。 ―古典編の編集では、フリ漢字というのに初めてぶつかったり、いろいろ勉強させていただきました。 【田口】方言がはげしくなってくると、漢字でふっておくんです。 【川村】長塚節の「土」の感じね。ふりがなは方言で漢字で出している。 【堀江】それが反対なんです。本文が方言で、脇に漢字でふってある。 ―ありがとうございました。 (2004年1月3日付け常陽新聞より) |
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